「世界は神の救済の時を迎えた」
「神に逆らうもの……それは悪魔に他ならない」
「諸君、悪魔にはどういう報いが有るのか知っているか」
「悪魔には未来永劫の牢獄を、その魂は地獄の業火の中焼かれていく」
「諸君らに問おう、人の形をした悪魔。我々はそれをどうすべきか」
「我らが神の裁きを受けるべきだ」
「悪魔は今、断罪の地に降り立とうとしている」
「我らの行く手を邪魔するものは悪魔のみ」
「さあ、神の子らよ。今を逃して、悪魔を討つ時は無い」
「良いか、あの赤き悪魔が再び神の使いに手を掛ける前に」
「良いか必ず、神の使いを手に掛けた報いを受けさせるのだ」
「そして我々は神の国へと誘われるのだ」
















Neon Genesis Evangelion

Endless Waltz

-9th Episode-















 アスカの出発に際しては、一種異様なほどの警戒体制が取られた。世界の最後の砦、エヴァンゲリオン弐号機の操縦者である。ある意味それは正当な警 備でも有った。空港内に立ち居る全てのもの、その全てに対して厳重なボディチェックが行われたのだ。その厳密さは、乳幼児にまで行われたほどである。その 甲斐有ってか、不審な人物や危険物のたぐいは見つからなかった。だがそれを持って安全とは言いきる事は出来なかった。
 そしてその警戒は、アスカの寄港地である新成田にも及んでいた。金属探知器や警察犬を使っての徹底した警戒が施されていた。
 アスカのドイツ出発は、実に多くの目によって監視されていた。もちろんその多くはネルフ、国連関係の彼女に対するガードなのだが、その中にはアスカに とって好ましくないものも含まれていた。ネルフや国連のガードに気づかれないよう様子を観察していた男は、アスカが国際線のゲートに消えたのを確認する と、何事も無かったようにその場から立ち去った。その様子はまったく不自然なところは無く、アスカの周りのガードたちもその男に注意を払うことは無かっ た。ただ、一人のアジア系の女性だけがその後姿を見つめていただけだった。
 その頃グロリアは、シェンの依頼通りアスカを守るため新成田に向かっていた。貰った情報が正しければ、動いているのは“デウス”だけである。グロリアで も防ぎようのないのが、アスカの乗った機体が爆破される事である。だが、ネルフもそこまでは間が抜けていなかったようだ、アスカの乗った機体は、順調に新 成田に向かっていた。であれば、次の襲撃場所は新成田である。その他の場所では、行動予定がはっきりしていない以上、アスカの補足が困難になるからであ る。だが、そうするとかなりの被害が出るとグロリアは予測した。“デウス”の組織自体は有名でないが、その行動の過激さは飛びぬけているのだ。彼らが一般 人の被害を気に掛けるとは思えないのだ。
「人間爆弾……おぉ怖っ!!」
 おそらくナイフや銃といった方法を取らないであろう、それがグロリアの予想だった。なぜなら、ネルフのガードは十分に優秀であり、狙撃やナイフによる襲 撃なら十分にアスカを守りきれるはずなのである。それにデウスのメンバーは死をいとわないはずだ。ならば一番簡単かつ確実な方法は自らを爆弾と化す事なの だ。いくら警戒を厳重にした所で、必ずそこには穴がある。特に公安関係にマークされていないデウスならば、施設内に立ち居る事は出来るのだ。
 どうやってネルフに邪魔されずに保護しようか、グロリアの頭脳は忙しく動き回っていた。だが彼女をしても、もう一つセカンドチルドレンに対する別の動き が有るのを知らなかった。




 人気の無いトイレで起こった小さな爆発からそれは始まった。その後、土産物売り場やごみ箱が爆発し、状況は完全な無差別爆破の様相を呈していた。 これら空港内で散発的に起こった爆発は、アスカの周りから警護の人員を確実に減らして行った。さらに爆発に脅えた利用客の間に、パニックは広がって行っ た。そうなると、いくらガードが優秀でも、一人を完璧に守りきれるものではない。混乱した乗客の中からテロリストを見つけ出すのは不可能に等しい状態に なっていた。そんな中で起こった爆発からアスカの身を守ったのは、さすがネルフのガードと言うべきだろう。だがそれでも、被害は無視し得ない大きなものに なった。
 アスカについていた護衛の一人が、パニックに流されていく利用客の中に流に流されながらも、一人平然としている男が居るのに気が付いた。その男が、人の 流の中を巧みに彼らの被保護対象に近づいていくのに気づいた彼は、本能的にアスカとその男の間に強引に割り込んだ。そのとき男は一声奇声を上げると、何か を手のひらで握りつぶした。とっさの判断で、ガードの男達はアスカに飛び掛り、自分達の体を盾にしてアスカを床に押さえ込んだ。その瞬間、耳を劈く轟音と 爆風があたりを包んだ。
 そして爆発の嵐が過ぎ去った中、瓦礫を押し退け一人の女性が立ちあがった。
「一体……何……が……」
 奇跡的にも、その爆発の中アスカは生き残ることが出来た。ガード達の機転のおかげで、分厚い肉の塊が格好のクッションと也、爆発の衝撃から彼女を守った のだ。しかしその代償は大きく、彼女の盾となった男達は原型をとどめぬ悲惨な姿に変わっていた。アスカの耳が一時的に聞こえなくなったぐらいは、彼女自身 の払った代償としては軽いものだろう。
 アスカはよろよろと立ちあがると、すっかり変わり果てたターミナルを見渡し息を呑んだ。ほんのつい先程までは活気にあふれた世界がそこに有ったのだ。そ れが今では、動くものの何も無い死の世界となっていた。その恐怖に、アスカの体ははっきりと震えていた。爆発の直前、突然視界を塞がれたが、男の言葉は はっきりと聞こえてきた。どこの言葉かはわからないが、自分の名前を呼ばれたのだけは理解できた。何故自分が狙われなくてはならないのか、その理不尽さに アスカは強い怒りを感じていた。その一方、自分一人殺す為になされた行為に、暗殺者の狂気を感じ強い恐怖に囚われた。そして自分がここにいたが為に、多く の人達が死ぬ事になった事への強い後悔が彼女の中に有った。
「怖い」
 自分のすぐ近くには動くものは居ない。少し離れたところで、ようやくもがき苦しむ被害者の姿が見えるぐらいだった。アスカ自身どうすることも出来ず、呆 然とその場に立ちすくむことしか出来なかった。
 それからどのくらいの時間が経過したのか、平衡感覚を失ったアスカにはそれを知ることは出来なかった。アスカが孤独と恐怖に押しつぶされそうになったと き、ようやく建物の向こうから来る制服姿の男達の姿が彼女の視界に入った。とりあえず助かった……その姿を見て彼女がようやく人心地がついた。
 だがそれは早計であった。
 次第に姿がはっきりしてきた彼らに、アスカは強い違和感を感じていた。日本の警察の姿はアスカもよく知っていた。近づいてくる男達は、確かに日本の警官 の姿をしていた。だが、彼らの姿がはっきりと分かる距離になったとき、アスカは自分を襲った危機がまだ過ぎ去っていないことを知らされた。明らかに、近 寄って来る男達は日本人ではなかったのだ。
 確かに国際化が進んだ今、公務員だからと言ってそのすべてが日本人でなければならないわけではない。だがそれにしても、絶対的に外国人の人数は少ないの だ。それに引き換え、今自分のもとに向かってくる警官たちは、全員が明らかに日本人ではない。やはりそれは異常なことなのだ。
 近づいてくる男達に、本能的に危険を感じ取ったアスカはそのまま物陰に隠れようとした。しかし、爆発に曝された彼女の体は言うことを聞かず、5mも歩か ない内に男達にアスカは取り押さえられた。抵抗しようとしたのだが、強い力で抑え込まれた上に薬をかがされて、何も出来ないままアスカの意識は失われた。
 男達はぐったりしたアスカの体をつま先で仰向けにして、薬が十分に効いている事を確認した。そして薬が効いているのを確認すると、一番体格のいい男が前 に出てアスカの体を抱え上げた。きわめて機械的に作業を進めていく彼らだったが、その瞳は異様な光が湛えられていた。その瞳に浮かんだ色は、狂気に彩られ た歓喜だった。
「すぐにここを離れるぞ」
 リーダー格の男の言葉に全員が頷き、男達は周りの死体に目もくれずその場所を立ち去った。




 男達が立ち去った後、動くものの居るはずのない世界に一つの影があった。体全体のシルエットから、それが若い女性で有ることが伺い知れた。その女 は、隠れていた物陰から姿を現すと男達の去っていった方向へ歩き出した。
 グリーンを基調としたチャイナドレスに身を包み、綺麗に纏められた髪をした女は、こんな所でなければ周囲の注目を一身に集める美しさを持っていた。そん な場違いな美しさを示した彼女は、爆発によって悪くなった足場を気にすることなく、高いヒールで足早に移動すると通りを見渡せる窓の所に来た。何台もの救 急車に消防車、そして山のようなパトカーが並ぶ中、一つのストレッチャーが疑われることもなくその中をすり抜けていった。そしてその姿が一台の車の中に消 えたのを確認すると、彼女は大きくスリットの開いた太股から小さな通信機を取り出した。
「虎4から虎1へ。デウスが女神を連れ去ったわ。ええ、今のところは無事。多分アジトでなにかの儀式を行うのでしょうね。計画どおり、女神の安全の確保を 頼むわよ」
 手短に用件を伝えた女は、邪悪な笑みを浮かべて電話を切った。瓢箪から駒とも言うべき好機が自分達に訪れたのだ。3年前の屈辱、父の無念を晴らす機会が である。
「ユイリが動き出すまでの勝負……もっとも彼女にも動いてもらわなくては困るのだけど……」
 今回の件で、彼女達の宿敵とも言えるユイリ・アンカが動いていないのは察知していた。罠であると言う疑いもあったが、監視の結果、ユイリ“だけ”が動い ていないのだ。シェンの手のものもグロリアも動いている。そしてシェン自身も動いているのだ。
 それがたとえ罠であったとしても、その罠は食い破ってしまえばいい。ユイリを温存しているというのなら、ユイリが出てくるまでに決定的な状況を作ってし まえば良いのだ。現に第一の勝負は、自分達が勝利した。セカンドチルドレンは、思惑通りデウスの手におちてくれた。
 もっとも虎4にも不安が無かったわけではない。ユイリを核に置いて、いつもは完璧な布陣を組んでいるにも関わらず、今回に限ってはシェンの計画に穴が多 すぎるのだ。確かに自分達が動くのは、彼の計算から外れたことなのかもしれない。だがそれでも第三者の介入は、常に考慮してきたのがシェン・ロンなのであ る。しかもユイリを温存しなくてはならない理由など、考えられないのだ。
「……ユイリとの間に何かがあったのか……それともこれも作戦なのか……」
 虎4は、足場の悪い廊下をぶらつきながら、シェンの意図に考えを巡らせた。そして比較的原型を保っていた売店の奥に向かって声を掛けた。
「どう思う?狼2……犬神アキラ?」
 誰も居ないはずの売店、そこには観光客向けの土産品が所せましと飾られていた棚が有った。だがきらびやかな装いも今はなく、爆風で崩れた棚が無残な姿を さらしていた。
「どうして俺に聞く?」
 荒れ果てた売店の中から、虎4の問いに対する答えが返ってきた。それと同時に、一人の男が浮かびあがるようにその場に現れた。
「簡単よ、あんたしかここに居ないから……」
 男は女の口から語られた理由にため息を一つ吐いた。
「あのなぁ、俺は中立だぞ。お前達の計画にも荷担しないし、シェンの奴にも荷担しない」
 そう言って男は言葉を切り、ニヤリといやらしい笑いを顔に浮かべた。
「もっともお前が俺の女になると言うのなら別だがな、どうだいメイホン?」
「誰が……!」
 身震いして虎4は、男の言葉に間髪を入れずに否定の言葉を吐き出した。狼2、犬神アキラは人狼一族の実質的なナンバーワンである。虎4であるメイホンに とって、相手に不足があるわけではない。だが、彼女自身今ひとつ犬神アキラを好きにはなれなかった。見た目と言う点では、しなやかな筋肉に包まれた均整の 取れた体をしていること。少し崩れてはいるが、まあ映画で準主役ぐらいは張れそうな顔立ち。市井ではそこそこもてているとは聞いている。決して悪い男では ないのだろう。だがそれでもメイホンは、本質的なところでこの男を好きにはなれなかった。
「つれないねぇ〜メイホンちゃんは。まあ良いだろう。俺の持っている情報を一つだけ教えてやろう。シェンはセカンドチルドレンにご執心なのさ。奴の今回の 行動はそれに尽きる。ユイリは今回は邪魔だと言うことだ」
 さらりと口にされたその情報は、素直に信じられる性格のものではなかった。
「ふ〜ん、それってどれくらい信用できるの?」
「さあね、あくまで噂の域を出ない。しかも今回の穴の多さを説明できる噂でもある。まあ、逆にそれだから疑わしいと言うことも出来るがな」
 女の口から出た懐疑的な台詞も、男は待ったく気にしたそぶりは見せなかった。
「結局役に立たないじゃない…はぁ」
 そう言ってメイホンは、あからさまな失望のため息を吐いて見せた。役に立たない男だと、暗にそしりを入れていた。
「だめだめ、そうやって挑発しても…俺からの条件は分かっているだろう?これ以上協力して欲しければ、俺の女になるんだな」
「いやぁよ、あんたみたいに気の多い奴なんて。こんなことをしていてもね、あたしはそういう夢だけは捨てていないの。あんたとじゃ、人生をどぶに捨てるよ うなものじゃない!!」
「言ってくれるねぇ。んじゃま、交渉は決裂と言うことで」
 未練も残さないで、狼2はそう言い残してその場から消えうせた。一方の虎4も、まるで初めからそこに誰も居なかったように、きれいさっぱり犬神アキラの 存在を頭の中から消し去り、再び窓の外に視線を向けた。
「いずれにしても、チャンスであることには変わりないか。まずはシェンとグロリアから血祭りにあげましょう……ふふ」
 虎4はそう言って楽しそうに笑った。丁度その時、フロアの反対側に救急隊員の姿が現れたのが彼女の目に入った。
「もう…手遅れ。誰も助からないわ」
 虎4は、その姿に一瞬視線を向けたが、すぐに興味を失ったかのように再び窓の外の景色に目をやった。
「子供向けのアニメなら、正義の味方は必ずヒロインの危機に間に合うのだけどね。でも現実は厳しいのよ……シェン。ヒロインは助かっても、正義の味方は命 を落とすこともあるの。あなたはどうなるのかしらねぇ?シェン!」
 歌うようにそう言って、メイホンは唐突にその場から姿を消した。後に残されたのは、すでに生を失った屍だけの世界だった。




 さすがのシェンも、今回ばかりは焦らない訳にはいかなかった。何しろ予定していなかった横槍が加えられたのだ。“デウス”だけであれば、何の問題 も無く作戦は遂行できるはずだった。しかし実際に蓋を開けてみれば、頼みのグロリアは何者かに足止めされてしまった。そして防ぐはずだった爆発も防げず、 確保するはずだったアスカはデウスに連れ去られてしまったのだ。それは明らかにシェンの失態である。
「邪魔が入るとは……」
 苦々しく吐き捨てて見たところで、すべては後の祭りである。体制を立て直すべく、グロリアとの合流地点に向かいながらシェンは、この後どうするべきかに 考えを巡らせた。
 何者が自分達の邪魔をしたのか?
 この点について、シェンには心当たりが無い訳ではなかった。ユイリには劣るとは言え、グロリアもまた闇の世界では恐れられた腕利きなのである。そのグロ リアを足止めしうる輩は多くは無いのだ。そして、今現在シェン達に対して、一番敵意を持っている相手を考えれば、おのずと相手は限定された。
「林大人か……」
 そこまで思い当たりながら、シェンは大切な判断を誤った。それは自分に向かって牙を向いた相手の力を読み誤った事だ。林一族を容易に排除できると踏んだ のである。
「林一族、怖れるに足らず……」
 新たな加勢が無い限り、手持ちの駒だけで圧倒できる。シェンは知らず知らずの内に、自分の力を過大評価していた。すなわち、ユイリが抜けた事による戦力 の低下の度合を見誤ったのだ。この点で皮肉な事は、ユイリの力を正当に評価していたのは林の一族であった事だ。彼らは、ユイリが居ない今を好機と考え、彼 女が急を聞いて駆け付けてくる前に勝負を決する腹づもりで居たのだ。
「アスカは……私が助ける……」
 敵の力を見誤ったとき、戦いは自分の予想を超えた動きを始めるものである。




 実際のところユイリは、シェンが自分に隠して何かの動きをしていることを知っていた。だがその事実に対してユイリは、グロリアが付き添っていると いうことを理由に放置しおくことにした。少なくともグロリアがついている以上、主人たるシェンに危険が迫ることは無いと彼女は考えたのだ。グロリアなら ば、彼女の手におえない事態が発生したとき、すぐに自分に連絡してくるとの信頼もあった。だからユイリは、自分に内緒にしたいという主人の意を汲み取っ て、気づいていないふりをして赤木博士とともに初号機の作業に従事していた。そんなユイリの元に、龍一族の当主、龍統貴から電話が入ったのはちょうど空港 で爆発が起こった時のことだった。ユイリの思いとは違い、龍老人はシェンがユイリに頼らなかったことに危険なものを感じていた。
「ユイリよ、シェンは何をしている?」
 龍老人は、開口一番シェンの所在をユイリに尋ねた。それは部下に対する高圧的な物言いではない。どちらかといえば、自分の孫娘に対するものだった。
「申し訳ありません。存じておりません」
 そのユイリの言葉は、龍老人に小さくない驚きをもたらした。
「お前が、シェンを放置しているとな?すまんがその理由を教えてくれないか?」
「シェン様は、御自身が何をなさろうとしているか、私に知られたくないと思われています。ですから私はシェン様のお心のままに、何も知らないことにしてお ります」
 龍老人はユイリの言葉に、ため息を吐くしかなかった。ユイリはシェンを甘えさせすぎると。
「ならばユイリは、シェンが何故お前に行動を隠しているのか知らないと言うのだな?」
「そのとおりです」
「お前の役目はシェンを守ることではないのか?」
「ただいまグロリアが付いております。あの子なら、状況判断を違えるとは思いません」
「セカンドチルドレンが日本に来ておる」
「それがどうか致しましたか?」
 老人は唐突に話題を変えた。だが、それも毛ほどの動揺をユイリから引き出さなかった。
「“デウス”がな、動いておる」
「グロリアが付いております。何も問題が無いかと」
「……だが、セカンドチルドレンは拉致された」
「御当主様、私にとって重要なのはシェン様の身の安全だけです。それ以外のことは小事でございます」
 龍老人は、ユイリの答えに再びため息を吐いた。
「林大人が動いておる」
「存じております。ですが御当主様、セカンドチルドレンが危険なのは、デウスの手にあるときだけです。さすがにグロリア一人では、林家の者の相手は手に余 ります。されどシェン様が手を引けば、彼らはセカンドチルドレンを保護するでしょう」
「そうだ、シェンがおとなしく手を引けばの話だ。だが、おそらくシェンは手を引くまい」
「何故でございましょう?」
「男と言うものはな、惚れた女子にいいところを見せようとするものだからじゃよ」
「だからシェン様は無理をなさると」
「そういう事じゃ……」
「ならば分かりました……」
 ユイリの答えは簡単明瞭だった。だが龍老人には、まだ話があるようだった。
「……待ってくれユイリ、わしから一つ頼みがある……」
「何でございましょうか?」
「孫可愛さと笑ってくれてもいい、シェンの望みを叶えてやってはくれまいか?」
「シェン様の望みですか?」
「そうじゃ、セカンドチルドレンなら願っても無い相手。無理を承知でお前に頼む、シェンを引き立ててやってくれ」
「ですが、それはお二人の間のこと、私には口の挟みようがありませんが」
「それはわかっておる、わかっておるのだ……」
 電話の向こうの老人は、奥歯にものが挟まったような言い方しか出来なかった。彼には、如何にその頼みが理不尽なものか分かりすぎるほど分かっていたの だ。それでも孫可愛さに、敢えてユイリに頼むしかなかったのだ。もちろんユイリは、老人が敢えて口に出さなかった部分も理解していた。
「分かりました。私は力の及ぶ限り、シェン様のお役に立ちます」
「すまんな……おまえには辛いことだろうに……」
「いえ、シェン様がお望みなら……」
 先を急ぐと言って、ユイリは龍老人との電話を切った。その電話を握り締めながら、龍老人は自分の孫を思いやった。
「馬鹿が……」
 その短い言葉の中に、どれほどの思いが込められていたのか知るのは老人だけだった。






続く

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