使徒の二人の姿を認め、口づけ一つでユイリは物欲しそうな目で自分を見つめるメイホンから体を離した。その姿は、まるでモーフィングのように変貌 を遂げ、体にしみ一つない美しいユイリの裸体へと戻っていた。すでにそこからは林家の者に犯された名残は見いだすことは出来なかった。
「シェン様に逆らおうとしたことは忘れなさい」
 そう言い残し、裸のままユイリは扉の向こうに消えていった。
















Neon Genesis Evangelion

Endless Waltz

-12th Episode-
















 グロリアがユイリの影に怯えていた頃、ユイリの部屋には4人の男女が集まっていた。一人はこの部屋の主であるユイリ、そしてもう一人が金色の髪を した赤木リツコ、そして残る二人が人に有らざる綾波レイと渚カヲルだった。ユイリは相変わらずの無表情を装い、渚カヲルはいつもの張り付いたような笑みが 消え、こちらもまた無表情になっていた。一方の綾波レイは、明らかに不機嫌さを隠そうともしていなかった。
 そんな三人に、初めから事情を知っていた赤木リツコは、これから起こることに興味津々と言った風だった。
 ユイリはその場の空気を気にすることも無く、黙ってお茶を振舞うと使徒の二人が話を切り出してくるのを待った。それを感じ取ったのか、最初に口火を切っ たのは渚カヲルだった。
「事情を説明してくれるかい?」
 綾波レイと違い、カヲルは怒りを顔に出していなかった。だが、決してその心が平穏なものであるはずは無いのだ。かえって抑えているだけ、その怒りも相当 なものだろうとリツコは想像していた。
「何をお聞きになりたいのですか?」
 だがユイリは、そんなカヲルの怒りもまったく気にした様子は見せなかった。知っててやっているのかと思うほど、それは二人の使徒のささくれだった神経を 逆なでしていた。
「全部だよ。事ここにいたるまでのすべて。何故君がセカンドチルドレンと居ないのか?何故ネルフを離れ一人で戦おうとしているのか。何故そんな風に女の格 好をしているのか。僕にはそのすべてが理解できない」
 無表情をかなぐり捨て、渚カヲルは明らかに憮然とした様子を見せた。よほどユイリの態度を腹に据えかねているのだろう。
「それを聞いてどうしようと言うのですか?」
 だが、いやだからこそとでも言えば良いのか、ユイリの冷静さが際立っていた。その態度は、まるで他人のことを話しているかのようでも有った。
「別にどうしようと言うことでないよ。ただ知りたいんだ。何故君がそんな風に変わってしまったのか」
「ならばお答えする必要もないと思いますが?」
「……でも私も知りたい……」
「何故?」
 二人の使徒の苛立ちが高まってくるのがリツコには手に取るように感じられた。それに引き換えユイリからは感情の波と言うものがまったく感じられないの だ。その一点をとっても、ユイリの辿ってきた道が如何に過酷なものだったのか想像が出来るとリツコは思っていた。
「……碇君のことを知りたいと思ってはいけないの?」
「何故あなたが今頃それを言えるのでしょう?あなたは碇シンジが一番あなたを必要としたとき、彼を見捨てていたのではなくて?」
 リツコは、顔を赤くして怒る綾波レイの姿を目の当たりにするとは思っていなかった。14歳の姿から成長したレイを見たのも驚きだったが、それ以上に感情 を高ぶらせたレイと言うのは彼女の記憶にはないものだったのだ。
「それに渚カヲルさん、あなたにしてもそう。最後の戦いの前に、彼の心は完全に壊れ掛けていたわ。あなたにその責任が無いとでもお思い?」
 ユイリの断罪は、二人に対してシンジとのつながりはすでに切れているのだと告げるものだった。二人にどんな事情が有ったとしても、それはシンジの預かり 知らぬことであると。
「だから君は、僕達に碇シンジの姿を見せてくれないのかい……」
「その必要が有るとは思えませんから」
 ある意味完全なる拒絶である。途方にくれる二人を前にして、さすがのリツコも二人が気の毒に感じ出していた。いくら成人女性の姿をしたレイが碇ユイに似 ていたとしても、もはやそのことがリツコに対して敵意を覚えさせる要素ではなくなっていたのだ。それにリツコにも、成人したシンジに会ってみたいという気 持ちもあった。
「なら取引をして見たら?」
 だからリツコはカヲルに向かって助け舟を出した。
「取引?」
「そう、取引よ。彼女は、その必要があるとは思えないと言ったのよ。だったら、その必要を認めさせればいいのでしょう?」
「しかし、僕らには取引するための何ものも持っていない……」
 なるほど、自分達人間は汚れているのだ。リツコはそんなカヲルの態度に、軽い感銘を受けた。リツコから見れば、手の内を簡単にばらしてしまう彼の素朴さ は、自分を追い出した組織には無縁の物だったのだ。だからリツコは、カヲルと言う青年に肩入れしたくなった。
「そんなことは無いわ。あなたは幾つもカードを持っているわ。たとえば、あなたがオリュムポスと呼んだ敵の情報とかね……」
「リツコ様!」
 咎めだてするようなユイリの視線を、リツコは受け流した。
「良いでしょう?私は彼が気に入ったの。それにね、私も見て見たいのよ……成長したシンジ君の姿と言うものをね。それともあなたは彼の人の良さを利用する つもりだったの?」
 さすがにこの話題に関してはリツコの方に分があった。確かに、敵の情報を聞き出すための見返りなど用意していなかったのである。
「今更ブラフは使えないけどね……」
 リツコは、ユイリが黙ってしまったことを承諾と受け取った。
「でもあなた達は、私たちよりは敵のことを知っているわ。それを取引の材料にすればいいのよ」
 世間知らずでは有るが、決して頭が悪いわけではない。むしろ世間的に見て見れば、人類を凌駕した英知を彼らは持っているのだ。リツコの言葉を聞いたカヲ ルは、少し考え込むようなそぶりを見せたが、すぐにその意味を悟り、彼としては珍しい悪意の篭った笑みを浮かべて見せた。
「なるほど、リリンのようにすればいいと」
 リツコはそのとおりだと頷いて見せた。いかにも困っているユイリの表情は、今のリツコには痛快でも有った。リツコの同意は、カヲルに力を与えた。カヲル は浮かんだ笑みを消さずに、要求をユイリに突きつけた。
「ならばシンジ君、交換条件といこう。僕達は敵の情報を提供する。その代わりに君は、僕達にシンジ君の姿を見せてくれないか?」
 カヲルの要求に、リツコはそれでいいと頷いて見せた。これならばユイリも拒みようが無いだろうと。少なくとも敵を撃退するために彼女も動いているのであ る。そのためには、どんな些細な情報も見逃すわけにはいかないのである。だが、ユイリの口をついて出た言葉は彼らの予想を越えたものだった。
「……ならば情報は諦めましょう」
「なんですって!!」
 てっきり折れると思ったユイリの言葉に、リツコは思わず腰を浮かしていた。この展開は、彼女の予想からは完全に外れていたのだ。
「敵の情報は要らないと申し上げたのです」
「どうしてよ、あなたには必要なはずよ……」
「使徒ではあの敵を倒すことは出来ません。でしたら、あなた達からもたらされる情報にも限界があると言うことです。交渉をするわけでは有りませんので、敵 の背景など必要はありません」
 いかにもとってつけたような理由では有るが、これでカヲルにとって手札は無くなってしまったのである。さすがのリツコにも、これ以上どうしたら良いのか 分からなかった。完全に黙り込んでしまった三人を前に、ユイリはにこりと微笑んで見せた。それは三人にとって、初めて見るユイリの人間らしい表情だった。
「あまりいじめても可哀相ですね。良いでしょう、情報と交換と言うことで碇シンジの姿を見せましょう」
 ユイリはそう言うと、唖然としている三人のを残し、着替えを持ってバスルームへと消えていった。




 10分ほど経ってバスルームから出てきたのは、ユイリの面影を漂わせる一人の男だった。だがリツコには、それが同一人物であるとはとても信じるこ とが出来なかった。何しろ背格好から髪の長さまで、そのすべてがユイリと異なっているのである。バスルームの中で誰かと入れ替わったのではとの疑いを感じ るほどだった。
 だがリツコの疑惑をよそに、使徒の二人はそのことに対する疑問を持っていないようだった。特に綾波レイなどは、彼女の前に現れたシンジに対して、どう感 情を表して良いのか戸惑っていた。そんなレイを前にして、シンジはにっこりと微笑み手招きをした。
「おいで……綾波」
 その瞬間、綾波レイは弾かれたようにシンジに飛びついた。うっすらとほほを染めるその姿は、まるで初めて恋を知った少女のようだった。シンジは小さく震 えるレイの体を抱きしめ、いとおしむようにその頭を撫で続けた。そんな二人の姿を見せられれば、さすがのリツコも納得しないわけにはいかなかった。確かに 目の前の男性は碇シンジである。先ほどまで自分達の前にいた女性と同一人物であるかは問題ではない。
「久しぶりだね、カヲル君」
「シンジ君、僕は……」
「いいんだよ……こうして僕は君と再会することが出来た」
 レイを胸に抱きとめたまま、シンジは立ち上がったカヲルと向き合った。すべてにおいて感情の欠如したユイリとは違い、その時のシンジ顔はやさしさに満ち 溢れていた。
「……まるで手品ね……誰かと入れ替わったなんて……安易な方法じゃないようね」
 思わず見惚れてしまったことを隠すように、リツコは強引に話題をそちらに持っていった。使徒の二人は疑問に感じていないようだが、自分にとってユイリと シンジが同一人物であると言うのは未だに解けない疑問なのである。
「口にするのは簡単なんですけどね。こと実行に移すとしたらほとんど不可能に近い方法なんですよ。リツコさん、ATフィールドのことは覚えていますよ ね?」
「人を人としての形にとどめるもの……の意味でかしら?」
 思い出すように言うリツコに、シンジは頷いて見せた。
「そう、人はATフィールドを纏うことで、人としての姿を保つんです。なら、男女の区別はどうです?実際に取る姿は?」
 シンジは自分の言葉が、リツコの中で咀嚼されるのを待った。
「魂の形、心の形がその姿を形作ると?」
 そしてリツコが正解に到達したことに満足そうに頷いた。
「そうです。だからと言って、誰にでも出来ることじゃ有りませんけどね。言って見れば、二度もエヴァに融けたことの後遺症とでも思ってください。ああ、少 し形が違いますが、同じようなことが出来る一族も居ますよ」
 そう言うと、名残惜しそうにしているレイを椅子に座らせ、シンジは自分もまた三人の前に腰を掛けた。
「僕の事情はまた別の機会に。カヲル君、僕は君達に碇シンジの姿を見せたよ。だから君達からは、敵の情報を話してもらおうか。敵と戦って見て感じた疑問も いくつか有るんだ」
 シンジの言葉にカヲルは頷いて見せた。
「ならば、僕は何から話せばいいんだい?」
 そうだな、とシンジは何から確認すべきか考えた。そして戦いの中で感じた、敵に対する不思議な感覚から確かめることにした。
「カヲル君、敵と戦って感じた事がある。彼らには心は感じられなかった。そう、例えて言うなら何かオートーマターのような感じだった。どうして彼らは人類 とコミュニケーションをとろうとしないんだい」
 一瞬の間に10万もの人々が消えた事と言い、ドイツに現れた敵からATフィールドが検出されなかった事。考えてみればいくらでも疑問は沸く。その中で最 大の疑問と言えるのは、なんの目的で彼らがやってくるのかと言う事だろう。その疑問に対して渚カヲルの口から発せられた言葉は、非常に大きなインパクトを シンジとリツコに与えた。
「君たちはこれから殺そうとする牛や馬とコミュニケーションを取るかい?海を泳いでいる魚たちに、これから辿る運命を説いて聞かせるかい?トラクターに情 緒を持たせるかい?いささか抽象的ではあるけど、これが答えだよ」
「まさか……私たちは単なる食料に過ぎないと言うの!」
 渚カヲルの言葉から導き出される結論に、赤木リツコは声を荒げた。人はこれまで多くの生き物を食料としてきたが、自分達が食料になるとは思っていなかっ たのである。全生物の食物連鎖の頂点に立っているという、それはいささか傲慢な考えかも知れない。だが事実、これまでは曲がりなりにも知性を持つ者として 頂点に立っていたのは間違いないのだ。
「彼らは狩猟をしようとでも言うの?」
「それは若干ニュアンスが違うよ。彼らは収穫にくるんだ」
 その言葉は、にわかには受け入れがたいことだった。彼の言葉を借りれば、人類は奴らに播かれた種から発芽した穀物と同義である。
「人類は奴等に巻かれた種から生まれたとでも言うの!」
「人類だけじゃない。この星に生きるもの全てがね」
「……どういう事よ」
「彼らは閉鎖空間における完全調和した生体系を作り上げたんだ。目的は高度な精神を持った生物の飼育。彼らには物理的補給物質としての栄養など必要無いか らね。必要なのは精神エネルギーの補給だけなんだよ。そのため長い時間を掛けて、精神的にも成熟した生物が現れるのを待った。そして頃合を見はからって収 穫に来た」
「私たちは彼らの餌となるために生きてきたと言うの?」
 言葉が震えるのはしかたの無い事だった。赤木リツコはあまりにも意外な事実に、感情を押さえる事が出来なかった。
「なら私たちは滅びるしかないと言う事なの!」
「リツコさん、それは違うよ」
 感情から叫び出したリツコを、シンジの冷静な声が押しとどめた。その柔らかな微笑みに、リツコは恐怖に強張った体がほぐれていくのを感じていた。
「カヲル君、君たちは滅びなかったんだろう」
「やはり分かっていたんだね」
「いや、カヲル君の話を聞いて、ようやく理解できたんだ。初号機と深くシンクロした時に見せられるビジョン、それが何かと言う事に」
「そう、僕たちもまた彼らにとって餌に過ぎなかった……彼らの作り上げた完全調和の生体系の中から生まれた、君たちとは別の可能性だったんだ」
 ひょっとして自分は宇宙の根源を垣間見ているのではないか?リツコはそんな感慨を持って、二人の会話を聞いていた。
「ただ気をつけてほしいのは、僕達は滅びなかったに過ぎないと言うことだ。こうして星を転々とし、逃げ延びているのに過ぎない…… 僕達にとって、アダム は方舟なんだよ。その方舟ももはや使うことはできない。この星に生まれたリリス、いや綾波レイと共に逃げ出すことも出来ないんだ」
「レイは君たちとは違うと言うの?」
「ああ、レイはこの星の生命の根源でもあるんだ。人のATフィールドを支える存在。そう言ったものだよ」
「なる程、それだからレイには君たちとは違う物を感じるんだね」
 シンジはそう言うと、隣で黙って話を聞いているレイの姿を見た。その顔には不安と不満、その二つが浮かび上がっていた。
「で、これから僕達はどうなるんだい」
「今地球に向かってくるのは戦闘用マシーンだ。もともと遊星Zを送りだした奴等はあそこにはいない。と言うより、未だにその存在があるかどうかも分からな い。気の遠くなるような周期で領地を回り、種まきと収穫を続けていく。奴等はそうプログラムされたオートマターに過ぎないんだよ。そのオートマターは予想 外に家畜の抵抗があった時には、その鎮圧機能を持った奴を送り込んでくる。多分次に来る奴がそれだよ」
「それを排除した後はどうなるの?」
「分からない、僕達の知る限りそれを成しえたものは居ないからね」
「覚醒をした初号機でもだめなのかい?」
 渚カヲルはふっと天を仰いだ。その瞳は天井を突き抜け、遠い宇宙を見通すかのようでもあった。
「幾億年もの時の流れの中、もっと大きな力を手にした物たちも居た……しかし、彼等を待っていた結末は、やはり滅亡だった。今回が、必ずしも彼等と同じ運 命を辿るとは言えない。しかし、可能性からいけばその運命の方が遥かに大きいんだ。それは分かってくれるだろう?」
 淡々と言葉を繋いでいくカヲルに、シンジに反論する余地はなかった。使徒達は初号機と戦い、その力も知っている。その上で吐かれた彼の言葉なのだ。彼等 を超える根拠を持たない以上、これ以上の言葉はなんの意味も持ちはしない。
「カヲル君、君たちはどうするんだ?」
「僕達の運命も君たちと同じだよ。方舟が失われた今、僕達に次の機会はないんだよ」
「それは僕達の所為なんだね……」
 すべてはセカンドインパクトが始まりである。あの時に使徒達は方舟を失い、そして二度とそれを手に入れることはなかったのだ。
「それは正しくもあり、正しくもないよ。言うなれば、これもまた僕達に定められた運命なんだよ。僕達は余りにも多くの滅びを目の当たりにして、心が疲弊し ているんだよ。使徒達は別の星で生まれた、君たちの別の可能性と言ったよね。彼等もまた豊かな心を持って居たんだ。しかし長い放浪は彼等の心を磨耗させた んだ。もう限界は見えている。だからこの結果も仕方のないことだと考えている。ある意味、僕達使徒は怨念の固まりなのかも知れない。いずれにしてもここで その輪廻が打ち切られるのも、それはまた仕方のないことだと思っているよ。できれば僕達の怨念、それをシンジ君、君に晴してもらいたいと僕達は願ってい る」
「カヲル君、それは僕には重いよ……重すぎるよ……」
「でも、それは君にしか出来ないことでもあるんだ。残念ながら誰も代わることの出来ないことなんだ。確かに君は望んでその立場になったわけじゃない。その ことには同情するよ。でもね、君は自分で自分の未来を掴む権利を得たんだ。それは君だけが持つ特権でもあるんだ。それを忘れないでほしい……」
 シンジは渚カヲルの言葉を黙って噛み締めた。その瞳に宿っているのは確かな決意。その瞳を見て、綾波レイは初めて言葉を紡ぎ出した。
「いかり……君……」
 切なく潤んだ赤い瞳を向けて、レイはシンジの手のひらに自分の手を重ねてきた。今のレイには、滅亡への恐怖より、再会の悦びが勝っていた。
「シンジ君、今度の戦いは厳しい物になる。戦闘用のオートマターの力ははかり知れない。ただ一つ言えることは、オートマターはオートマターに過ぎないと言 うことだ。収穫は行わないので、戦わない者が犠牲になることはない」
「カヲル君、君が何を言いたいのかは分かったよ。でも僕には彼女等を止めることは出来ない。ミサトさんもアスカも、相手が強大であるからと言って、少しの 可能性を信じて戦いを止めることはないよ。」
「良く分かっているんだね、彼女達のことを……なぜ君は、彼女達の傍に居てあげないんだい?」
 そのカヲルの言葉に、初めてシンジに笑み以外の困惑が浮かんだ。
「逃げ出した僕に、今更その資格は無いよ。それに僕のこの手は沢山の汚濁に塗れているんだ。そんな僕が、彼女の傍に居るわけにはいかないんだ」
「彼女の気持ちはどうなんだい?」
「それはたいした問題ではないよ。彼女の周りには沢山の素晴らしい人たちが居る。彼らは僕に勝りこそすれ、劣ることなどどこにも無いんだ。後はすべて時間 が解決してくれるよ」
「それが君の答えなのかい?シンジ君……」
 しかしシンジは、そのカヲルの問いかけに答えることはなかった。シンジは立ち上がると、ユイリに戻る時間が来たと三人に退室を促した。
「いかり……君……」
 リツコが少し肩を竦めて出ていく後ろ、綾波レイだけが部屋を出ようとしなかった。その想いを込めた吐息は、熱くシンジの耳朶をくすぐった。
「碇君と一つになりたい……私のその願いは変わっていないわ。碇君に私を抱いて欲しいの」
「……ごめん、綾波……僕は君を抱くことは出来ない」
「何故、私が使徒だから?人ではないから?」
「綾波……君が人じゃないなんて考えたことはなかった。今でも綾波は人だと思っている」
「なら……なぜ……」
 懇願するレイの視線に、シンジは目をそらした。
「……たぶん怖いんだと思う……」
「私が怖いの……?」
「違うよ、違う!そういう事じゃない。綾波……君のせいじゃないんだ。全部僕のせいなんだ……」
 搾り出すようにシンジは自分が悪いのだとレイに言った。その時レイは、心の奥底に隠されていたシンジの恐怖を垣間見た気がした。レイは、シンジの怯えの 中から喪失の恐怖を感じ取っていた。
「いかり…君」
「ごめん、綾波……だめなんだ……」
「もういいの……」
 壊れ物を扱うように、いやそれ以上の丁寧さでレイはシンジを抱きしめた。
「大丈夫、私は二度とあなたの前から居なくならない。あなたを一人にしないわ……」
 レイは、その言葉を呪文のように囁きつづけた。









続く

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