望んだものを手に入れたのにも関わらず、シェンの胸の中にはどうしようもない空虚な穴が広がっていた。その真っ黒な穴は、シェンの心にあるすべて の高揚した気分を吸い込み、シェンの心をどうしようもない虚脱へと引き込んでいった。それは、静かに眠っているアスカの寝顔を見ても晴れることなく、一層 重いものとなってシェンの心を底なしの沼へと引っ張っていった。
「私は……何を求めていたのか……」
 そう独白するシェンの顔色は冴えない。決してアスカに対する気持ちが変わったわけではない。アスカを得る代わりに捨てる物の重さが、シェンの中で無視で きない物となっていたのだ。
「私は……」
 シェンの呟きは、静かな病室の中で木霊し消えていった。そこに広がるのはシェンとアスカだけの二人だけの空間である。スリーピングビューティーと化した アスカは、まるで時を止めたかのような空間をそこに作り出していた。
『誰かが責任を取ればいいことです。それにシェン様を守るのが、私の債務です』
 シェンの心には、ユイリがいった言葉がとげのように刺さっていた。主人と家来、確かに自分たちの関係はそれに違いないはずだった。だからシェンを守るの が自分の債務だと言い切ったことに、ユイリには何の非も無いのである。にもかかわらず主人たる自分が、なぜその言葉にいつまでも拘っているのか。そこには 明確な答えがあるのだが、シェンがその答えを封印していたがために、彼は出口の無い心の迷宮を彷徨わなくてはならなくなっていた。だがそのとき聞こえてき た控えめなノックの音が、シェンの心を現実へと引き上げた。その音にびくりと反応したシェンは、あわててドアの方へと振り返り答えた。
「鍵は掛かっていない。入ってくればいい」
 グロリアが冷やかしに来たのかとシェンは想像した。だがシェンの予想は完全に外れていた。
「ツィムじゃないか……どうしたんだ、こんな夜中に……」
 シェンは驚きを隠さず立ち上がると、入り口に立っていたツィムを迎え入れた。
「ちょっとな、様子見だよ。それと幸せ者を冷やかしに来たんだ」
「幸せ者……何のことだ?」
「おいおい、しらばっくれるなよ。お前さんは、人も羨むアスカ嬢の配偶者第一候補なんだぞ。いや、当選確実と言った所かな?冷やかしたところで罰はあたら んと思っていたんだがな……」
 そうツィムはからかったのだが、すぐに期待はずれだとつぶやいた。
「なんだって……?」
「こんなしけた顔をした奴をからかっても面白くない」
「ツィム、その言葉は聞き捨てならんな!私のどこが……」
「この部屋には鏡がないようだな。一度トイレにでも行って、鏡で自分の顔を眺めて見ろ。恋人に振られたような顔をして居るぞ!」
「振られた?私がか?」
「この場に他に誰が居る?」
「馬鹿らしい、私が振られたなどと……」
「そんな顔をしていると言ったまでだ」
 グロリアにその話を聞いたときには、ツィム自身半信半疑だった。満面の笑みとは行かないまでも、それなりにうれしそうな顔をしているだろうと思っていた のだ。だがここに来る前に、ユイリの部屋に入っていくカヲルの姿を見て、ツィムもなんとなくグロリアの言葉を理解できるようになっていたのだ。そしてそれ は、この部屋でふさぎ込むシェンの顔を見て確信となった。
「用が無くなったのなら、帰ってくれないか。今はとてもお前と馬鹿をやっている気分じゃない」
「ほう、いったいどんな気分なんだ?やはり振られてアンニュイな気分って所か?」
「ツィムは、冷やかしではなく馬鹿にしに来たのか?私にはお前のその口を黙らせることが出来るんだぞ!」
「おいおい、それは俺に向かって言うことじゃないだろう。お前さんは、アスカ嬢を手に入れたんだ。そこに何の不満がある」
「彼女を物のように言うな!」
「苛付くなって」
「私は苛付いてなどいない!」
「まったく……お前は今の状況に不満があるのか?」
「……不満などない……」
「その顔をして、そんなことを言うか?」
「悪かったな、こんな顔で」
「まったく……お前がこんなに子供だとは思わなかった。いいか、お前は何を望んでいる?それをはっきりと考えてみたのか?」
「私の望みは……」
「お前さん、本人に向かって求婚までしたんだろう?だったら今の状況に何の不満がある?この際、自力で彼女の心を手に入れられなかったってことは些細なこ とだろう?」
「なんだと……」
「確かに偶然転がり込んできたことだ。だがその先うまくいく保証なんてどこにも無いんだろ?それに、苦労ならこの先いくらでも出来るだろう。それとも楽で きないことを僻んでいるのか?」
「黙れ!私はそんなことは考えていない!!」
「ならなんだ?手に入ってしまえば、急に興味を無くしてしまう子供のような奴なのか?お前は」
「黙れ!黙れ!」
 ツィムに言い寄られて激昂する様は、普段の冷静なシェンからは考えられない物だった。
「黙ってもいいが、本当にお前はそれでいいのか?」
「……なんだと?」
「渚カヲルが、ユイリの部屋に入っていった。その意味をわからんお前ではないだろう」
「なんだって!!」
 あわてて立ち上がったシェンを、ツィムは手で制した。
「行くのは構わないが、行ってどうするつもりなんだ?」
「なんだって?」
「こんなに思考停止をしているお前を見るのは初めてだな。いいか、男と女の関係になっている二人の所に、お前は何をしに行くというのだ?」
「それは……」
「今のお前のしている顔がすべての答えだろ。どうしてそれをお前は認めない」
「しかし私は、一度ユイリに断られている……」
「ユイリと碇シンジが体を共有しているからか?」
「どうしてお前がそれを知っている!」
 ツィムの指摘に、うなだれていたシェンは、驚いて顔を上げた。
「俺が自分の意志だけでここに来たと思うな」
「グロリアの差し金か……」
「まあそう言うことだ。あいつなりに心配していると言うことさ」
「違うな。グロリアが心配しているのは、私のことじゃない」
「そうだな、それにあいつは物事をややこしくする趣味もあるからな。だが、今回だけはあいつのしたことは正しいと思っている」
「なんだって?」
「お前さんは、一度敗退したからって、しっぽを巻いて諦めるのか?」
「そんなことは……だが……しかし……」
「ユイリの事情ってやつか?全く優しいことだ。ならきれいさっぱり諦めることだな」
「それは……」
「出来ないって言いたいんだろ?だったらどうして行動しない。残された時間は少ないんだろ?」
「ユイリにはユイリの事情がある。その事情は何も変わっていないんだ!!」
「そんな物は大したことじゃないだろ」
 すべての事情を知っていてそう言いきるツィムに、シェンは目を見開いた。
「恥ずかしながら、グロリアに惚れちまってな」
 そう言うことだと、ツィムは笑って見せた。
「まあ一悶着有ったが、まあグロリアも結婚を納得してくれた」
「それは…おめでとう…と言えばいいのかな」
「おめでとうでいいんだ。ところでシェン、それを聞いてお前はどうする。それでも諦めるか?」
「……分からないんだ……どうしたらいいのか」
「まったく……よくそんなことで、人の上に立とうだなんて考えた物だ。いいか、お前は10億人民の上に立とうと言う男なんだ。こんなことでくよくよしてい てどうするんだ!」
「それとこれとは話が違う!!」
「いいや、違わん!!周りのみんなは、お前とユイリが一緒になる物と思って居るんだ。なのにお前たちはどうしてその期待に応えない?」
「みんなのために結婚する訳じゃない!」
「なら、どうして躊躇う?お前の気持ちはどうなんだ」
「私の気持ちは……ユイリを愛している」
「そう言うことだ。周りが関係ないのなら、お前は自分の気持ちに正直になるべきなんだ。それを大爺様とやらも望んで居るんだ」
「大爺様……がか?」
 不思議そうな顔をしたシェンに、これは内緒だとツィムは打ち明けた。
「お前たちのことをよろしく頼むだそうだ。全く寄って集って面倒事を押しつけてくれる」
 そう言って、ツィムは大げさにため息を吐いて見せた。
「そう言うことだ。アスカ嬢のことは心配しなくてもいい。お前の代わりは心当たりがあるからな。安心しろ俺じゃないって。とにかくそういう事だから、たま には当たって砕けて見ろ!!」
「砕けるつもりなんか無い!!私はもう成算の無い戦いはしない!!」
「まあそういう事なら頑張れよぉ」
 すっかり元気を取り戻したシェンの背中を見送って、ツィムはようやく大任を果たしたと安堵のため息を吐いた。こんなことをさせたグロリアもグロリアだ が、爺さんのほうがさらに性質が悪いと。
「しかし、このままユイリの部屋に行ったら真っ最中じゃないか?」
 まっ、何とかなるかと、ツィムはグロリアが約束したご褒美を貰おうと、その部屋を後にした。











Neon Genesis Evangelion

Endless Waltz

-21st Episode-










 シェンは、立ち塞がるカヲルを一瞥すると、すぐにその存在を無視してユイリの部屋へと入ろうとした。だが、それをカヲルは許すことは無かった。ほ んの少しだけ体を移動させ、シェンの行く手を遮って見せた。
「どいてくれないか?お前に用などは無い」
「僕にも君に用は無いよ。でも、君が僕とユイリの間を邪魔すると言うのなら話は別だと思わないかい」
「私はユイリの主人だ。ユイリの部屋に行くのを、お前に断る必要など無い」
「確かに君たちは主従の関係だろう。でも、それだけなんだろう?だったら彼女のプライベートを犯すのは、主人としていささか短慮な行為だとは思わないのか い」
「お前の指図を受けないと言っただろう。そこをどくんだ」
「そうはいかないね。僕たちはたった今まで愛し合っていたんだ。彼女の全身に僕を刻み付け、そして彼女は何度も僕のものをその体で受け止めた。単なる主人 の君の入ってくる余地など無いよ」
「ユイリは、お前を愛しているわけではない!!」
「それは君の思い込みだよ。現に僕達は、今まで深く愛の行為を交わしていた」
「それでもだ!!私は彼女と話をしなくてはならないんだ」
「それなら明日の朝にしてくれないかい。今夜は彼女のぬくもりを放したくないんだ」
「それじゃ遅い。今夜でなくてはいけないんだ」
「それはどうしてだい?言っただろう?話によっては、道を譲るのも吝かでないと」
「私とユイリの間の問題だ!!」
「それで僕が納得できるとでも?今の君は興奮している。このままだと彼女を傷つけることになるからね。ユイリを愛している僕としては、繊細な彼女の心を守 らなくてはならないんだよ」
「私がユイリを傷つけるだと」
「おやおや、君はもっと回りに気を配った方が良いよ。いま、彼女が君に会いたいと思っていると思うのかい?彼女はたった今まで、僕に抱かれていたんだよ」
 カヲルの言葉に、シェンは瞬間言葉に詰まった。ことに及ぶ前でも気まずいものがあるのに、その後で踏み込む形になるのだ。ユイリの気まずさはどれほどの ものであろうか。だがそれでもシェンは、ひるむわけには行かなかった。自分の気持ちの昂ぶりは差し引いたとしても、時間を追うにつれ、ユイリの纏う心の殻 は強固になっていくのだ。
「それでも、私は彼女に会わなくてはならない。会って伝えなくてはいけないんだ」
「君は頑固な上に物分りが悪いんだね。僕は、君たちを会わせないとは言っていないんだよ。一時的な興奮状態で伝えた言葉では、相手の心に響かないんだよ。 君はもう少し落ち着く必要がある。そして彼女にも少し時間が必要だと言うことを理解してあげる余裕もね。彼女の女としての矜持を尊重してあげてくれないか い?」
 シェンの心を一言で現わすのなら、それは嫉妬だろう。カヲルの言う事の一つ一つがもっともである事は分かっていても、それを彼の感情が許さないのだ。相 手がカヲル以外であれば、シェンも冷静に対応できた事だろう。だが、ユイリを抱いたカヲルを前にしては、いくらシェンでも気持ちを落ち着けるのは難しかっ た。
「そんなことは分かっている。分かっているから時間をおいてきたんだ!」
「一応、僕達が交わっている時に踏み込まないだけの分別はあったということかい?それとも僕に組み敷かれ歓喜の声を上げているユイリを見たくなかっただけ なのかい?」
 カヲルの言葉は、明らかにシェンを嘲笑したものだった。本来なら、ここでシェンの心は爆発するところなのだが、このときばかりはそうはならなかった。そ れは大事なことを控えたシェンの自制が勝ったと言うことと、二人の背後で静かに扉が開いたことが原因だった。
「ユイリ!」
「もう、いいのかい?」
 二人の視線の先には、白いセーターに身を包んだユイリが立っていた。長い黒髪を後ろに束ね、日頃見慣れぬ格好をしたユイリの姿は、スーツを着込んだ姿し か見ていないシェンにはとても新鮮に映っていた。そんなシェンの思いを知らず、ユイリはシェンをさて置きまずカヲルに向かって深々と頭を下げた。
「カヲル様……お心遣いありがとうございます。ここからはシェン様と私の問題です」
「……ならば間抜けな道化は退場するとしよう……」
「申し訳ありません」
「いや、キミが気にすることではないよ。これは僕の選択でもある。未練がましく聞こえるかもしれないが、僕の最後の頼みを聞いてくれるかい?」
「何でございましょう?」
「僕のことを哀れと思ってくれるのなら、これ以上自分の心を誤魔化さないでくれ」
「仰ることの意味が分かりませんが?」
「ATフィールドの侵食は、一方通行ではないと言うことだよ。キミならこの意味が分かると思うのだがね」
「……仰る通りです」
 分かったのなら良いと、カヲルはそのまま振り返らずその場を後にした。後に残されたシェンは、ユイリに促されて彼女の部屋へと入っていった。
「シェン様、御用はなんでしょうか?」
 そう言って頭を下げたユイリに、シェンは歩み寄ると何も言わずにその頬を張った。並みの男なら弾き飛ばされてしまいそうな勢いに、いかなユイリとは言え 無事では済まなかった。だがさすがはユイリと言うべきか、わずかによろめいただけで持ちこたえ、怒るでもない曇り一つ無い眼差しでシェンの顔を見つめた。
「申し訳ございません。愚かしくも私は、シェン様が何にご立腹されているのか分かりません」
「分からないと言うのか?」
「はい……」
 そう言ってユイリは、再び頭を下げた。
「お前は私の前で、他の男に抱かれた。それに対する罰だ」
「申し訳ございません」
「もういい、お前への罰は済んだ。後は私の用件だ」
「はい」
「それに着替えて私の後に着いて来い。すぐに北京へ飛んで、大爺様の所へ行く」
 そう言ってシェンは、手に持っていたバッグをユイリへと渡した。その中身に、さすがのユイリも目を見開いて驚いた。そこにはシェンと揃いの白い長衣が 入っていた。すなわち、シェンはこれから婚礼の報告に行くとユイリに告げたのだった。
「シェン様。このことは、私の事情をお話してご理解を頂いたと思っています。なのにどうしてこのようなことを……」
「お前の事情は全て知っての上のことだ」
「それならばなぜ、このようなことを」
「私がお前を愛しているからと言うことでは不足か?」
「不足でございます。しかもそれは錯覚でございます」
「錯覚などではない。現に私は、お前を失うことを恐れている」
「それも一時のことです。シェン様にはアスカ様がいらっしゃいます」
「代わりのものでは埋められぬものがあるとなぜ考えない」
「それはシェン様の思い込みに過ぎません。時とともに思いは風化し、そして記憶の片隅に追いやられる物です」
「それは嘘だ。いくら時を経ても、決してなくならないものがある。私にとって、それがお前だ」
「冷静になってください。私の本体が男であることをお忘れでしょうか?しかも私は生き残ったとしても、法によって裁かれる身。この二つだけでも、シェン様 の伴侶となるには相応しくない身です」
 ユイリは気づいているのだろうか?自分がシェンにとって相応しくない理由を挙げれば挙げるほど、追い詰められていくと言うことを。しかもユイリ自身、 シェンに対する否定的な自分の気持ちを口にしていないと言うことを。もしもユイリが、男としてシェンを好きではないと言い切ったのなら、シェンもまた追い 詰められることになっただろう。だがユイリの口にした理由は、思い悩み、覚悟を決めたシェンの前ではいかにも非力な言い訳に過ぎなかった。
「ユイリは女で、私の子供を産むことも出来る。もう一つの姿が男であることなど、私は問題にしていない。法によって裁かれると言うのなら、私がこの全身全 霊を掛けてお前を守ろう。お前のもう一つの姿、碇シンジは愛する女性のため、全ての罪悪をその身に背負ったのではないか?それに比べれば、私の背負うもの など軽いものだ」
「私は娼館に拾われ、多くの男に抱かれてきた身です。そして同じように多くの命も奪いました。この身を使って、多くの男を誑かし利用してきました。私を抱 いた男は数え切れません。分かりますか?私はそれほどに汚れきった女です。それを忘れてシェン様の妻となれるほど、私は恥知らずではありません」
「それも全て知っている。その上でのことだとなぜ理解しない」
「それでもです。シェン様に汚点をつけるわけには参りません」
「私はそれを汚点だとは思わぬ。答えろユイリ、私の器量はそれほど小さいのか!お前一人受け入れられないほど小さいと言うのか!!」
 この時点で、シェンには二つの選択肢があった。もちろんそれは、ユイリをどうその気にさせるかに付いてである。いざとなったら泣き落としでもするという 覚悟を秘めたまま、シェンは正攻法でユイリを説得に掛かっていた。それは、シェン自身の矜持にもよるものだが、それが一番自分らしい方法だと信じていたか らである。
「器量とは別の問題であると申し上げているのです。シェン様は、多くの者達の頂点に立つ身でございます。その器量については疑いようもございません。です が、私を妻に娶ると言うことは、シェン様の器量とは別の問題でございます」
「いや同じだ。世間の目を気にし、愛するものを見捨てたとあっては、誰が私を信じてついてこようか」
「私を妻に娶らないと言うことは、見捨てると言うことと同義ではございません」
「それはお前の考えだ。世間はお前を見捨てたと私を笑うだろう」
「そんなことは……ございません」
「しかもお前は、私に自分の心を偽って生きろと言っている」
「それは……」
「お前が人の心を操る力を持っているせいだと言うのか?」
「……左様でございます」
「ならばユイリ、お前に問おう!なぜこのように面倒なことになるにも関わらず、お前を愛するように私を操作したのだ?」
 さすがのユイリも、この問いには答えに詰まった。人の心を操ることが出来るのなら、シェンが自分をこのように愛することが無いようにすることも可能なは ずなのだ。そして、ここまで頑なにシェンの申し入れを拒む以上、そうしなかったことへの正当な理由が無いのだ。
「さあ答えろ!」
「それは……私でもままならないときがございます……」
「……苦しい言訳だな。まあ良いだろう。ならもう一つ聞こう」
「はい」
「アスカのことだが、なぜ彼女ならいいのだ」
「仰っていらっしゃることが分かりませんが?」
「私に彼女を看ろと言うことは、彼女が私を好きになるように操作することではないのか?」
 再びユイリは、答えに詰まってしまった。全ては自分の感情の問題なのだ。ほころびなどいくらでも存在していた。
「彼女の生い立ちは、理由にはならないぞ。私たちのしようとしていることは、彼らの行ったことと変わらないのだからな」
「はい……」
「ならばお前は、自分が否定したことを私にさせようとしているのか?」
「そういうわけではございません!」
「もういい、そのことでお前を責めようなどとは思っていない」
「はい」
「どうしても私の妻とならないと言うのか?」
「お許しください」
「そうか……ならば仕方が無い」
 シェンの言葉に、ユイリは心の中で安堵のため息を吐いた。だがそれは早計であった。突然ユイリの目の前で、シェンはひざを着き、日本で言う土下座の格好 を取ったのだ。さすがのユイリもこれには慌てた。二人の関係から、それはあってはいけないことなのだ。
「シェン様、頭をお上げになってください!」
「いや、お前が私の妻になることを承諾してくれるまで頭を上げん」
「私に対して、シェン様がそのようなことをなさってはいけません」
「もはや私には、これ以外できることはないからな。情けない男だと思ってくれてもいい。私の妻になってくれ」
「それは……出来ません……」
「ならば私も頭を上げることは出来ない」
 奇妙な形の睨み合いが、シェンとユイリの間で展開された。物音一つ響かない深夜の研究所で、二人は緊張したまま悪戯に時だけが過ぎていった。
「これ以上、私を困らせないでください」
 意外なことにその緊張に負けたのは、シェンではなくユイリのほうだった。ユイリはその場にぺたりと腰を下ろすと、両手で顔を覆って泣き出したのだ。さす がに、シェンもこれには慌てるしかなかった。慌てて頭を上げると、涙を流しているユイリの元へと駆け寄っていった。
「……すまない。それほどまで私のことを嫌っていたのか。許してくれ、お前の気持ちをわかろうとしなかった私のことを……」
「違います……違うんです……私はあなたのことを愛しています。でもだめなんです……私はユイリでもあり、碇シンジでもあるんです」
「それでもと言うのは私の傲慢なのだろうか……だが私はその上で、お前を愛するようになったのだ。どうかこの気持ちをわかって欲しい」
「私の半分は男なのです。そしてアスカ様に対する狂おしいほどの思いを押さえているのです。私が自分の思いに従ってしまえば、彼はその思いに押しつぶされ てしまうでしょう。もしそうなってしまったら、私の存在など消し飛んでしまいます。後生ですから、私をそっとして置いてください」
 これ以上ユイリを追い詰めてはならない、今のユイリの状態にシェンはそう理解した。
「分かった。私の妻になれとは今は言わない。だが、私からの願いを聞いてくれ」
「なんなりと申し付けてください……」
「オリュムポスとの戦いまでの間、私以外の男に抱かれないでくれ。もしも心細くなったのなら、お願いだから私を頼って欲しい。お前が他の男に抱かれている かと思うと、気が狂いそうになるのだ」
「分かりましたシェン様。ユイリは生涯シェン様以外の殿方に体を許さないことにします。それで宜しいでしょうか?」
 それが今のユイリにできる最大の譲歩であろう、それ以上の答えは望むべきではない。もちろんシェンは、ユイリの答えが、自分の期待とは微妙にずれている 事は気付いていた。だがそのずれは修正の範囲であると信じ、シェンはこの場を収める事にした。
「すまなかったな、ユイリ。だがこれだけは信じてくれ。私はお前を困らせる為に求婚したのではないということを……」
「……分かっています……シェン様のお気持ちは嬉しいんです……でも」
「もういい、今は何も言うな」
 そう言ってシェンがユイリを抱き締めた時、東の空はうっすらと白み始めていた。運命の日まで、残す所5日の朝の出来事だった。







続く

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