運命の朝、シンジはメイホンの温もりに包まれて目を覚ました。それはシンジの人生の中で、他人の温もりが心地よいと感じたはじめての出来事だっ
た。
「メイホン……か」
他人の温もりをあきらめた自分に、それが早計であると教えてくれた女性。身を寄せ合って眠りについた昨夜、メイホンに教えられたことをシンジは思い出し
ていた。
『私たち一族の女性は、例外なく新月が受胎時期なんです』
それは肉体の不死身性とも関連する不思議な特性だと彼女は言っていた。その時はそんなことも有るのかとシンジは聞き流したのだが、一夜が明け運命の時を
迎えた今、メイホンの言ったその一言が大きな重みを持ってシンジの心の中に響いてきた。
『だから、きっと子供ができていると思うんです』
自分の子供が生まれるのかも知れない。少し前ならそんなことは想像だにしていなかった。いや、自分の生い立ちを思うと、自分の子供が生まれるなどと言う
ことは恐怖でしかありえなかった。だがそれが現実になろうとしている今、シンジは自分が不思議な昂揚感に包まれているのを感じていた。
「ユイリのことを言えないじゃないか……」
シェンに向かって、ユイリの母性が目覚めるとシンジは言った。だが、自分こそ父性に目覚めようとしている。メイホンの中に、本当に自分の子供が生まれて
いるのなら、その子供のために戦うのも立派な理由じゃないか。シンジはそう考えることのきっかけとなったメイホンに心から感謝していた。
「でも、君たちにも時間をあげないといけないね」
自分は最後に充実した時を過ごすことができた。だから最後に、短い時間でもユイリのための時間を使おうと。
シンジは、メイホンを起こさないようにそっとベッドから抜け出すと、ユイリの着替えを持ってバスルームへと消えていった。
初号機に乗り込むシンジを、見送りの面々はそれぞれ複雑な思いを持って見送っていた。その中で、純粋に相手の無事を祈っていたのはシェンとメイホ
ンだった。もちろんアスカやレイもシンジの無事を祈っいなかったわけではない。だがその心の中に、やりきれない苛立ちがあったのも確かなことだった。
本来なら、シンジの元に押しかけていたのはアスカであり、レイであるはずだった。だが二人は偶然鉢合わせたため、結果的にお互いを牽制するはめになって
しまったのだ。出直そうとした二人だったが、部屋に戻って頭を冷やすと、急にシンジに対する罪悪感が頭をもたげてきてしまった。その結果、部屋を出るのに
相当の努力が必要となり、心のままに行動したメイホンに遅れをとることとなってしまったのだ。ようやくシンジの部屋にたどり着いた二人は、中からもれ聞こ
えてきた甘い声に自分の敗北を知らされてしまった。だがいくら歯噛みをして悔しがったところで、すでに手遅れである。部屋の中から漏れ出てくる甘い声を前
に、二人にはその場からすごすごと退却することしか出来なかった。
そして、今こうしてシンジが、自分たちではなくメイホンに向かって柔らかな支線を向け、それに応えてメイホンが初々しい恥じらいを見せる姿を見せつけら
れるにつれ、アスカとレイは失ったものの大きさを思い知らされたのだ。
「だからと言って……」
あきらめられる物ではないと、アスカは誰にも聞こえない声でつぶやいた。それは一晩泣き明かしながら自分の心を見つめ直したおかげでもある。たとえその
きっかけに他人の介在が有ったとしても、今自分がシンジに対して持っている思いは、長い間自分自身が暖めてきたものなのだ。それを否定することは自分自身
の存在を否定することだとアスカは結論づけたのだ。
だからこそ、シンジには生きて帰ってきて貰わなくてはいけないのだ。たとえメイホンの後になろうとも、見苦しくもすがりつくことになろうとも、シンジに
自分を受け入れて貰わなくてはならないのだ。そのためにはシンジが居なくてはなにも始まらない。そう思い詰めながら、なにもできない自分にアスカは一番腹
を立てていた。
もう一人、綾波レイもまた複雑な思いでシンジの出発を見送っていた。彼女にしてもその思いはアスカと同じだった。たとえかりそめの姿であったとしても、
そして心の中に生じた思いが、そのかりそめの姿に宿った錯覚に似たものであったとしても、初めて感じるヒトに対する熱い思いは今の彼女にとっては何ものに
も代え難い物だった。全人類の存在と秤に掛けたとしても、綾波レイは迷わずシンジをとったであろう。そのため彼女は、反対されても自らもオリュムポスに立
ち向かおうとすら考えていた。
「碇くんは、私が守ってみせる……」
14の時と同じ誓いを、今度はレイは自らの意志で再び誓った。
今ではやや手狭になったシートに座り、シンジは気分を落ち着けるように息を吸い込んでみた。14の時に乗せられて以来、自分の人生に大きな影響を
与えてきたエヴァンゲリオン初号機。その機体に乗り込み、これから自分は神にも等しい物を相手にしようとしている。神の使い、そして神…これまで辿ってき
た人生も含め、自分はなんと波乱に富んだ人生を送ってきたのか、自虐的な思いも込め、シンジは自分の人生に感心しないわけにはいかなかった。
「世界の命運……あの頃はそんなことを考えたことも無かったな……」
父親に捨てられないよう、少しでも気を引けるよう、そう考えてエヴァに乗っていた子供の頃。今更ながら子供だったのだとシンジは思った。だからと言っ
て、それがいけないこととはシンジは思わなかった。だがもう少しだけ周りを見ることが出来れば、自分がなにをすることが出来たのか知ることが出来たのにと
シンジは思った。ミサトの言葉ではないが、自分を持たずに流されるものは利用されても仕方がない。その時は、それはネルフの驕りだとシンジは言ったが、自
分に当てはめてみればそれは真実でもあったのだ。ただ流されるだけで、考えようとしなかった。おだてられれば天狗になり、少し厳しいことを言われるととた
んに萎れてしまう。今更ながら、救い難い子供だったとシンジは自嘲した。
「ようやく今になって、僕は自分の意志でこれに乗っている……」
それまでに払った代償は大きかった。アスカの居るマンションを飛び出したのはいいが、反射的に湖に身を投げ、気づいたときシンジは知らない船の中にい
た。すえた臭いのする船内には、自分と同じくらいの沢山の子供たちが押し込まれて居た。そして長い船旅の後、シンジは中国大陸の地を踏みしめた。そして連
れて行かれたのは、「春楼」と呼ばれる娼館だった。そこでシンジは、男娼として客を取ることを強要された。男娼と言えば聞こえはいいが、ようは客の欲求を
満たすための玩具だったのだ。上海に連れて行かれたシンジが、最初に叩き込まれたのは希望を捨てることだった。
「いいかい、生きて帰れるなんて夢は捨てることだね」
醜怪な老婆にそう言われたとき、最初に浮かんだのはアスカの顔だった。『ああ、これでアスカとも逢えないんだ』そう漠然と思ったとき、シンジは急に恐怖
を感じ出したのだった。おかしなことだが、シンジにとって、自分の生き死によりも、見捨てて残してきたアスカのことが気がかりだったのだ。だが、玩具とし
て飼われている少年たちに、外の情報が与えられるはずはない。たまに酔狂な客にねだって、外のことを教えてもらっても、当然そんな客がネルフのことを知っ
ているはずが無かった。そのためいくらアスカを思ってシンジが身を焦がそうとも、もはや彼にはどうする事もできなくなっていた。
一方彼をとり巻く現実はやさしくはなかった。老婆のいった言葉には、何の誇張もなく極めてまっとうに真実を表していたのだ。まともな娼館ならば、商品と
して娼婦を大切にするのが相場なのだが、シンジの居たところはそうではなかった。所詮使い捨てのおもちゃと、ろくな食事も与えられず衛生とは無縁な環境に
子供たちは押し込まれたのだ。そんな子供相手だから、客の方もまた子供に求める物が違っていた。値段の安さを理由に性的欲求のために子供を買いに来る客も
いたのだが、大半は普通では発散できない暴力的趣味を、買ってきた子供を使ってそれを晴らすような客だった。そのため子供の消耗も激しく、一人また一人と
シンジの周りから子供が消えていった。そしてどうするのかわからないが、毎日のように新しい子供たちが集められていた。
そのためシンジの周りの顔も、当然のように毎日入れ替わっていた。初めのころはその理由を詮索したシンジだったが、すぐにそれも空しくなり止めてしまっ
た。聞けばさまざまな答えは返ってくるのだが、違うのは方法だけでその結果は必ず同じだったのだ。そう、違っていたのは殺され方だけだったのだ。絞殺、撲
殺、中にはダミードールよろしく車で轢き殺された者や、刃物で切り刻まれたものも居た。中にはばらばらに解体され、それこそ“食われた”ものも居たと言
う。
実際シンジ自身も何度か危ない目にあっていた。だが、そのような状態の中から、シンジはそれこそ泥をすすりながらしぶとく生き残ってきた。皮肉にもその
時役に立ったのは、パイロットの時に受けた訓練だった。サンドバッグよろしく、客に滅多打ちにされながらもかろうじて急所だけははずしていたのである。
結果的にシンジは生き残ったが、それはシンジの運が良かったことだけでは片付けられない。アスカに再び会うと言う執念が、シンジに最後の線で踏み止まる
意志を与えたのだ。だからと言って、執念だけで生き延びることができるほど生易しいところではないのも確かだったのだ。彼にとって最大の幸運は、ともに生
き延びることを誓った仲間が居たころだろう。それがグロリア・ヤン、男のときの名をジョン・ウオンとの出会いだった。四肢の骨を折られ、全身がどす黒く変
色するまで殴られたときには、さすがのシンジも動くことができなくなっていた。這いずることも、うめき声をあげることもできなくなり、高熱で死にかけたシ
ンジを救ったのがグロリアだった。いくらシンジに生への執着があったとしても、彼女がシンジに小便を飲ませなければ、そこでこと切れていてもおかしくない
状況だったのだ。
グロリアがシンジを助けたのには、ちゃんとした理由があった。どんなに死にそうになっても、あきらめないシンジの姿に、なぜそこまで頑張れるのかが知り
たかったのだ。実のところ、グロリアには両親が健在だった。彼女の両親は、ただグロリアが男としては異常にか細く、そして性的にも未分化であったことで彼
女を嫌い、そこがどんなところであるのかを知りながら、わずかな金で彼女を売り飛ばしたのだ。賢いグロリアは、両親が自分を殺すためにここに売ったことを
理解していた。その為もあり、彼女自身生きてく意志など持っていなかったのである。そして自分が居るところこそ、死ぬには丁度いいところだと思っていたの
だ。そんな彼女には、どう考えても生き残ることのできないここで、少しでも生き残ろうと足掻いているシンジの姿がとても奇異に映ったのだ。だから彼女がシ
ンジを助け、シンジが口を聞けるようになったとき、彼女がシンジにどうして生きようとするのかと聞いたのはごくあたりまえの事だった。
「生きて会いたい人が居るから」
しかしグロリアには、シンジのその答えが信じられなかった。その人の名を聞き、恋人ではないと教えられ、シンジが遭った仕打ちを聞くにつれ、グロリアの
混迷はさらに深まった。グロリアには、そうまでして逢わなくてはならない相手とは思えなかったのだ。復讐のためかとの質問を否定されたとき、彼女の混乱は
さらに極まっていた。だからグロリアは、シンジの感情を理解できないと正直にシンジにうち明けた。それに応えて、シンジは口では説明できるものではないと
グロリアに話した。
「僕も、その人に会えば理解できる?」
そう尋ねるグロリアに、シンジは多分無理だろうと答えた。それは僕だけの思いだからと。しかしグロリアは、そんなシンジの答えに、自分もまた彼女に会っ
てみたいと考えるようになっていた。はじめから希望など持ち合わせていなかったグロリアに、初めて生まれた希望がシンジとともに生きることだった。その日
からグロリアもまた、地獄の中で生き残ることを選択した同志となった。
その次の幸運は、皮肉なことに龍家を襲った権力争いだった。劣悪な環境にめげることなく生き残っている二人に、さすがの娼館側も気味悪がったのだ。そこ
で、たまたま爆弾を運ぶ子供が必要だと言われ、老婆は迷わずこの二人を選んだ。なまじ長生きをされると、子供たちに変な希望を与えると考えた。だがこれこ
そが、シンジが耐え忍んで待った脱出の機会だったのだ。
「ジョンは、僕を信じてくれる?」
「僕もアスカに会いたいんだ」
強く望むことで道が開かれる。シンジとグロリア、二人はこうして絶望の淵から生き延びたのだった。
「それにしても、普通とは程遠い人生を送っているな……」
いくら渚カヲルに、それは自分だけに与えられた特権だと言われても、やはりそれはシンジにとって本意ではない事だった。自分が望んだのは、家族の揃った
平凡な家庭だったはずだ。波乱万丈の人生など、自分の性には合わないと思っていたのだ。しかしそれが叶えられない以上、シンジはこうして自分で道を切り開
く機会を得ただけでもましだと考えられるようにはなっていた。確かにカヲルの言う通り、これは特権に違いない。少なくとも自分の命運を、他人のせいにしな
くても済むのだから。
LCLで満たされたエントリープラグの中、シンジは静かに初号機を起動させた。14の時から変わらない感覚、血の味のするLCLもこれが最後だと思えば
寂しさすら感じるのだ。
「母さんは、なぜエヴァに残ったの?初号機が箱舟だと知っていたの?」
何年ぶりかの問いかけを、シンジは口に出して見た。もちろん答えが有るとは思っていなかった。だがシンジは、それを残念に思う以前に、急に自分の中に浮
かんできた考えに苦笑を浮かべていた。
それは自分の中に居るもう一人の自分、ユイリの成り立ちについてだった。あまりにも自分とは違いすぎる存在に、もしかしたら母の魂が籠もっているかとシ
ンジは考えたのである。
「まさかね……」
シンジは苦笑と共にそれを否定した。自分が初号機を降りたときには、ユイリはまだ存在しなかったのだ。初号機の中に母が居るのなら、ユイリの出現と時間
的に整合がとれないのだ。
シンジは頭を振って、自分の中に浮かんできた考えを振り切ると、モニタに何人かの姿を大きく映し出した。そこに居たのはシェンであり、メイホンであり、
そしてアスカとレイであった。その中からアスカの姿を拡大し、言い訳をするようにシンジは呟いた。
「未練がましいね……でも、最後ぐらいはいいだろう?」
そこには思いつめた表情のアスカが映し出されていた。その顔が、8年前の追い詰められていくアスカの顔と重なりシンジは胸に痛みを感じていた。
「結局僕ではアスカに笑顔を取り戻させることは出来ないんだ。僕達は互いに相容れない存在なのかもしれないね」
もしその言葉をアスカが聞いていたのなら、言下にそれを否定しただろう。確かにシンジのせいで、彼女は笑顔を取り戻すことは出来なかった。だが、それは
シンジがアスカとのふれあいを否定したからに他ならないのだ。だが歪んで出来上がってしまったシンジの中のアスカは、シンジの居ない世界で笑顔を浮かべて
いる。今のシンジの中では、それが正しい未来のビジョンとなってしまっていた。
「シンジ君、いいわね」
シンジの物思いは、突如開いたリツコからの通信で終わりとなった。目の前には航宙図が展開され、オリュムポスの使者との接触点が赤く記されていた。
「頼りにしていますよ……リツコさん、そしてツィンメルマン博士」
宇宙飛行など、まったくの初体験なのである。飛び出したのはいいが、すれ違いましたではすまないのだ。そのためには、その道の権威であるツィムの助けが
必要なのである。
「おいっ、碇シンジ!!必ず無事で帰って来いよ!!俺はお前を殴らなきゃいかんからな!!」
いきなりの言われ様、しかもとても友好的とは思えない言葉にシンジは苦笑を浮かべた。
「いきなりそれは無いでしょう、ツィンメルマン博士?」
「うるさいっ!!俺はお前に言いたいことが沢山あるんだ!!だがそれは、お前が無事に帰ってくるまで取って置く!!だからそれを知りたかったら必ず帰って
来い!!それから俺はツィムでいい」
「ならツィム、僕もお前でなくシンジと呼んでくれないか」
「いいかシンジ!!航路のデータはすでに転送してある。月の距離の約100倍の地点が遭遇点となる。確かに気の遠くなるような距離だが、宇宙の物差しでは
ほんのわずかな距離だ。そこで何か有れば、地球上への影響も考えられるからな」
暗に敵と共に爆発なんぞするなと、ツィムの言葉は語っていた。
「善処しますよ。僕としても帰ってくる場所は残しておきたいですからね」
「ならいい。だったらとっとと行って来い!!」
「言うまでも無いことだよ、ツィム!!エヴァンゲリオン発進します!!」
その言葉と共に、初号機は宙に浮かび上がった。単にATフィールドで重力を遮断しただけなのだが、それでも初号機の体はゆっくりと空気の浮力に従って上
昇を始めた。そして十分に上空に上り詰めたとき、初号機は初めて光り輝く12枚の翼を広げた。そして次の瞬間には、輝く光の矢となってはるか上空へとその
姿を消し去った。光の粉を撒き散らしながら闇を切り裂いていく姿は、夜空を見上げていた多くの人たちの目にその姿を焼き付けることとなった。そしてそれは
光にも迫ろうかと言うスピードだった。
「野郎っ、航路なんて要らなかったんじゃないのか?」
その軌跡を追いながら、ツィムは忌々しげにそう吐き捨てた。明らかに彼の予想した速度を超えて飛び立っているにも関わらず、その方向は再計算したオリュ
ムポスとの遭遇点にまっすぐ向かっていたのだ。
「惹かれているのかもしれないわね……」
「引かれている?初号機がオリュムポスにですか?」
「そういう事があっても不思議じゃないわ。何しろ相手は人にとって、神にも等しい存在なんだから」
「神と言うには、いささか性質が悪い気がしますけどね?」
「そう?人に慈悲を与えることだけが神の仕業じゃ無いと思うのだけどね。何度もやり直しのために人を滅ぼしたのは、あなた達の信じる神様じゃなかったかし
ら?」
決してリツコは皮肉を言ったわけではない。オリュムポスとカヲルが敵を呼称した事、そして神話の中に伝わる幾つもの神の裁き。やけにそれが符合する事
に、リツコとしてもいやなものを感じていたのだ。
「なら愚昧な我々は、神による滅びの鉄槌を待つしかないのでしょうかね?」
「でも私は神を信じていないわ。だから神の裁きも信じていないの」
「詭弁ですね……」
「でも、真実よ」
すでに月軌道を越えた初号機の航跡を目に、リツコは唾を一つ飲み込んだ。このままで行けば、予定より5時間早く、10分以内に敵との交戦に入ることにな
る。地球からおよそ5000万キロの彼方、それは人類にとって想像を越える遠い距離であるのだが、ツィムが言った通り、宇宙規模ではほんの僅かな距離なの
である。
「いずれにしても、その答えはあいつが握っているんでしょうね」
ツィムの視線の先には、遭遇点にまっすぐ伸びていく光の線が映っていた。
オリュムポスに惹かれていると言うリツコの指摘は、初号機に乗っているシンジもまた感じているものだった。何しろ彼の乗った初号機は、シンジの意
思を離れ猛烈なスピードで宇宙を駆けているのだ。この時点でシンジは、腹を括るしかなかった。何しろ最後の頼りだと思っていた初号機すら自由にならないの
だ。すでにシンジの打てる手は無くなっていた。
「使徒たちと同じ……と言うわけではないのか……」
初号機からは、使徒たちに似た狂気は感じられなかった。だからシンジは、心を落ち着け制御を取り戻すため初号機に深くシンクロしようとした。一体何が初
号機を突き動かしているのかは分からない。しかし、このままでは全ての努力が水の泡になってしまうのだ。だがシンジの努力も空しく、逆に初号機はシンジと
のシンクロを解除する方向に動いていた。あたかも初号機が、別の何かに変わってしまったようにシンジには感じられた。
「これも仕組まれていたことなのか……」
自問するように、シンジはユイリに問い掛けた。だが、ユイリにしても答えを持ち合わせているわけではない。結果、わからないとしかユイリには答えようが
無かった。だがユイリがその答えをシンジに返すよりも早く、事態は新たな展開を迎えていた。それまでは小さな光の点でしかなかったオリュムポスの使者が、
急にその光度を増し、突然初号機の前にその姿を現したのだ。一瞬の間にその距離を詰めたのなら、それは光の速度を超えて移動したことになる。しかしオリュ
ムポスの使者は、シンジに驚く暇すら与えることなく初号機をその中に取り込んだ。目の前に光の海を意識した瞬間、シンジの意識は初号機とともに大宇宙に散
華していた。それは、シンジが最後の言葉を発する間もない出来事だった。
初号機が宇宙に散華した後、そこに広がるのは何も無い空虚な空間だけだった。
シェンたちが、いや世界が初号機とオリュムポスの使者の消滅を知ったのは、シンジの意識が散華したおよそ3分後のことだった。あっけない結末だっ
たが、これで世界は救われたと大きく沸きかえったのだ。だがその歓喜は、すぐに更に大きな落胆にとって代わられた。初号機の消えた空間から少し離れたとこ
ろに、消えたはずのオリュムポスの使者よりも、はるかに大きな物体が現れたのだ。その物体がまっすぐと地球に向かってくると言う知らせに、世界は大きな沈
黙に包まれた。
「……何が起こっているというのだい……」
唯一オリュムポスを知るカヲルですら、想像だにしない結果に唸ることしかできなかった。彼をして、今は未知の状況へと突入していたのだ。月に匹敵する巨
大な敵は、例外なく絶望という結果を押しつけた。もはや計器が伝える観測データも何の役にも立たなかった。世界の中に、それを利用しようと言う気持ちが失
われていたのだ。ただツィムだけが、そのデータの中から信じられないものを読みとっていた。彼は、突如現れた物体が何であるのかを理解していた。
「どうして、何億キロもの彼方から……」
そう、その物体は地球から遠ざかっているはずの、遊星Zそのものだったのだ。その巨大な本体が、どういう理屈か分からないが突如離脱していく軌道を外
れ、地球の目の前に沸いて出たのだ。たとえ時間を掛けて方向を変えたとしても、その慣性モーメントの大きさからすれば、遊星Zそのものを壊してしまうほど
の力が働かなければ不可能なことなのだ。それが現実には、目の前に実体を表したのだ。その現実を前に、ツィムは人類の小さな力の限界を感じていた。ユイリ
の言ったとおり、初めから勝てる相手ではなかったのだと。
「終わったのか……」
ツィムはキーボードから手を離し、グロリアと最後の時を迎えるべくコンピュータをシャットダウンした。
絶望に包まれたATLの中、それでもアスカとグロリアはシンジの帰還を信じていた。二人は、絶望に包まれた全員に向かって、最後の最後までシンジを見捨
てるなと檄を飛ばしたのだ。自分たちがシンジの無事を信じることをやめたのなら、誰がそれを信じるのかと。まだ最後の時を迎えていない以上、彼のサポート
を怠ってはいけないのだと。
気休めにもならない檄だが、それでもATLはかろうじて動きを取り戻した。それは、どうしようもない絶望の前で、彼らが唯一すがれるものに縋り付いた結
果にしか過ぎない。だがそれでも、全員がはかない夢に飛びついた。だが一人綾波レイだけは例外だった。彼女は、まさにシンジが消滅した瞬間、体の中から何
かが欠け落ちたのを感じていたのだ。それが何なのかは分からなかったが、それはレイに急激な失調感を引き起こし、立っていることさえ困難にしていた。レイ
の変調にカヲルが気づかなければ、レイもまた床に倒れ伏していただろう。
真っ青になったレイを支えたカヲルは、放心状態のレイが何事か呟いているのに気がついた。その呟きに耳を澄ましたカヲルは、自分もまた立っている場所が
消えたような恐怖を味わっていた。
「……シンジ君が消えてしまったと言うのかい?君の中から……」
レイの呟きは、リリスの子たるシンジの消滅を示唆していた。
続く