ユイリが気がついたとき、彼女の目に触れたのは何もない暗黒の空間だった。手を動かそうが、足を動かそうが何の抵抗も感じない世界、それがユイリ の目の前に広がっていたのだ。そこでは自分の手を見ようが足を見ようが何も見ることができず、それどころか自分自身に触れることすらできない不思議な空間 だった。
 その何も手がかりのない空間の中で、ユイリは猛烈な不安に襲われていた。そんな異常な空間に置かれて、不安を感じないわけは無いのだが、ユイリにとって 重要だったのは、自分の中から碇シンジの存在が欠け落ちていた事だった。碇シンジと、ユイリ・アンカ、分けることのできない存在であるにも拘わらず、ユイ リがいくら呼びかけようとも、その存在の欠片をどこにも見つけだすことが出来なかったのだ。シンジに生み出されたユイリにとって、シンジの消失こそ最大の 恐怖だった。自分ひとりで、この体を自由にできないと言う不自由を抱えていても、それでもシンジの存在はその不自由さを忘れさせるほど重要なことだったの だ。そして今、シンジの居ない状況で、ユイリはこの不可解な世界と向かい合わなくてはならなかった。
 ユイリが気が付いた時と言ったが、それは極めて比喩的な表現である。何しろユイリ自身、シンジの問い掛けの後、白い光を感じてから今の状態に至るまでの 時間の経過を感じていなかったのだ。それどころか、ユイリは自分が気を失ったとも思っていなかった。しかし今の世界と、シンジの中で見た光景は明らかに不 連続にも拘わらず、ユイリ自身その不連続点を何時どうやって超えたのか覚えていなかった。













Neon Genesis Evangelion

Endless Waltz

-25th Episode-













 動くものどころか、自分の姿も含め、目に映るものは何もない世界、それがユイリの周りに広がっていたのである。そんな中では、時間を含めたすべて の感覚が狂ってしまっていた。しかもどれだけ経っても空腹も渇きも、尿意すら感じないと有っては、自分の存在すら疑ってしまうと言うものだ。ユイリは、自 分がどんな姿でいるのか、それどころか自分の形が保たれているのかすら分からなくなっていた。大声を上げ見ても、その音が実際に耳に響くこともなく、ただ 大声を上げたという感覚だけが自分に返ってくる。暴れてみたところで、結局何の手がかりもなく、手足が空を切る感覚すら伝わってこなかった。もちろん何か に拘束されているのとも違っていた。あまりの異常さに、ユイリは自分が死んだのかと疑った。最後に覚えている光景からすれば、そこで命を失っていたとして もおかしくない状況だったのである。しかし、今自分が居るのが死後の世界だとは、ユイリにはどうしても思えなかった。
「ならこれは夢なのかしら?」
 ユイリはそう自分に問いかけてみた。だがそれは、現状の何の解決にもなっていないことは確かだった。たとえこれが夢だとしても、この世界から抜け出す方 法が皆目分からないのだ。
「足掻いてみるにしても、これじゃあ……」
 ユイリが何をしたところで、周りの世界には全く影響を与えることが出来ないのだ。自分の鼻すら摘むことの出来ない世界で、いったい何が出来るというのだ ろうか。泣き叫んだところで、体力すら消耗しない世界。しかも眠ろうとしても眠ることすら出来ず、自分が気づく前にはどうだったのかすら記憶の彼方に消え ていた。仕方が無いので、ユイリはこのまま待つしかないと腹を括って、じっと前方と思われる空間を凝視することにした。
 ユイリがそうし出して、いったいどれくらいの時間が経ったのだろうか。時間の経過すら分からないこの世界に、小さな変化が現れたのにユイリは気づいた。 何もないと思っていたこの世界に、自分以外の何かに気がついたのである。
 そこでユイリが見つけたのは、本当に小さな光の点だった。はじめは暗闇の中で見る目の錯覚かと思ったのだが、どう目を凝らしても、どう意識を向けてみた ところで、その光の点の存在は変わらなかったのだ。そして、例え錯覚かもしれなくても、前後もまったく分からない世界よりはましだとユイリは考えた。初め て自分以外の存在となった光の点は、針でつついたほどの大きさもなく、頼りない光をその闇の中で発していた。そんな取るに足らない存在も、初めて自分以外 の存在が現れたことで気持ちの軽くなったユイリは、その光に向かって不平を漏らしていた。
「こんなに小さくちゃ役に立たないじゃない」
 もちろんユイリは、その不平に答えなど期待しては居なかった。だが意外なことに、何も聞こえてこないはずのこの世界で、ユイリは背後からの声をはっきり と聞いたのである。しかも聞こえてきた声は、彼女にとって馴染みの深いものだった。
「驚いたな。混沌への突入を乗り越えただなんて」
「シェン様!?」
 驚いたユイリは、あわてて背後に振り返りそこに声の主を見つけた。確かにユイリの前に現れたのはシェン・ロンだったのである。
「どうしてシェン様がここに!!」
 それもそうであろう。地球にいるはずのシェンが、ユイリの居るこの不可解な世界に現れたのだ。ユイリでなくとも不思議に思うのは仕方のないことだった。 だが方向すら存在しなかった世界に、何時の間にか方向どころか上下の区別が現れたことにユイリは気づいていなかった。それほどまでに、シェンが目の前に現 れたことは彼女から平常心を失わせた。何時の間にか、ユイリは着慣れたスーツを着て、ただ黒い空間にシェンと向かい合っていた。
 ユイリの問いかけを受けたシェンの姿をしたものは、機械的な笑みを浮かべユイリに答えた。
「これは君の心の中に有った姿を借りたんだよ。そうしないと君とは会話を出来ないからね」
「あなたは……だれ?」
 思いも掛けない答えに、ユイリはとっさに身構えたが、すぐにその無意味さを悟り攻撃の構えを解いた。そのユイリの様子を気にすることなく、これもまた機 械的にシェンの姿をしたものが答えた。
「それは難しい質問だね。君たちの語彙の中に、私の存在を説明するのに適当な言葉がないんだ。一番近そうな言葉を借りるなら、『研究員』とでも言えばいい のかな?」
「研究員?そうじゃなくて、あなたは誰って聞いているのよ」
「研究員は研究員さ。『評価サンプル』を用いて、『適当な環境』と『外的干渉』を加えたのち、その『評価サンプル』がどのような変化を遂げるのか。それを 調べる『研究員』と言う存在さ」
「研究員……、『評価サンプル』とは何なの?」
 役目を示す名前が、固有名詞であり、そしてその研究員の言う『評価サンプル』と言う意味不明な言葉に、ユイリはシェンの姿をした物に、その意味を尋ね た。
「君たちが『生物』と呼ぶ物すべてさ」
「なら、あなたがオリュムポスなの!!」
 その答えを聞いた時、反射的にユイリはシェンの姿をしたものに攻撃を仕掛けていた。華僑世界にその名を轟かせたユイリだったが、シェンの姿をしたものの 髪の毛を揺らすことすらできなかった。シェンの姿をしたものは、そこから一歩も動いてはいないのだが、ユイリには触れることすらできなかったのだ。達人 が、紙一重で攻撃をかわしていると言うわけではない。実態を持たない虚像を相手にしていると言うのとも違った。確かにシェンの姿をしたものに触れているは ずなのだが、その感触もなにもユイリには伝わってこなかった。まるでお互いが違う世界に存在しているかのようだった。シェンの姿をしたものは、自分を襲お うとしているユイリを気にすることなく、まるで目に何も映っていないかのように淡々とユイリの問いに答えた。
「君の心の中にある、この物体を送り出した者と言うことなら、その答えはイエスだよ」
 その時、何もなかったはずの空間に、突如としてまばゆい白い光の玉が現れた。その姿はユイリの知らないものだったが、その光は今まさに地球を飲み込もう としていた。
「どうしてこんなまねをするの!!」
 このままでは、初号機と同じように地球まで消えてしまう。ユイリは焦燥から、無駄だと知りながらもシェンの姿をしたものを攻撃しつづけた。だがユイリが いくら激昂しても、シェンの姿をしたものの様子が変わることは無かった。
「こんなまねの意味が理解できないな?」
「地上の人たちを根絶やしにしようとすることよ!!」
 ようやく得心が行ったのか、シェンの姿をした物は大仰に肯いてみせた。それもどこか、わざとらしい行為だった。
「実験が終われば、その後かたづけをする。それが標準的な手順だと思うのだが?」
「そんなことを言っているんじゃないわ。なぜ、私たちを殺そうとしているかって聞いているのよ」
「殺す?単に実験の後始末をしているだけだが?君たちでもそうするんじゃないのかい?」
「私たちは命を弄ばないわ。そんな実験はしないわよ!!」
「悪いが、君の言う命という物が分からない」
「私を見てよ!私はこうして生きているでしょう!!あなたは、こうして生きている私のような存在を弄んでいるのよ!!」
「君の言っていることは私には不可解だ。もちろん概念として、君の言うことは理解できる。だが私が、摂理に反して無から作り上げた物を、再び私が無に返し たところで何がいけないのか分からない。無に返さなければ、それこそ摂理を犯してしまうのに」
「摂理って何よ。私たちはこうして生きているのよ。勝手にその命を奪う権利はあなたにも無いはずよ」
「どう説明したら分かってもらえるのかな?そうそう、君たちが病原体の実験をするとき、厳重に管理された空間を用いるだろう?そして実験が完了したら、そ の病原体が漏れ出さないように管理し、その上ですべてを始末する。もしくは、遺伝子を操作して、一定世代以上個体を維持できないようにするだろう。私のし ていることはそれと寸分も違いないんだ」
「そんな、病原体と一緒にしないで!!」
 ユイリの主張は、人類としては当然の物だった。だが、それを受け取る方には、その主張こそ意外そのものだったようだ。
「君たちと病原体の間に、考慮すべき差があるのか私には分からないのだけどね」
「どうしてあなたほどの存在にそれが分からないの!!」
 そう言った瞬間、気がついた恐ろしい考えにユイリは寒気を感じた。人を遙かに凌駕する存在だからこそ、人と病原体の間の区別が付かないのだ。彼から見れ ば、ユイリの主張する差など、生物としての階梯の中ではわずかな誤差に過ぎないのだ。
「理解してくれたようだね。思ったより君には知性が生まれているようだ」
「なぜ……そっとしておいてくれないの。あなたにとって取るに足りない存在なら、そっとしておいてくれてもいいじゃない」
「私が始めた実験だからね、きちんとデータを取って、後始末をする。そうしないと次の実験が始められないからね」
「次の実験……?」
「ああ、新しい実験場を用意した。そこで君たちの言う、生命の発生と進化、そして文明の発生の実験を行う」
 その言葉に、ユイリは絶望を感じていた。それもそうだろう、自分たち人類が実験を行う立場なら、実験動物の懇願に耳など貸さないだろう。実験全体の目的 のため、黙々と与えられた課題をこなしていく。そこに必要なことは、冷静な観察眼と、着実に実験をこなしていく計画性だけなのだ。
 だがそこまで考えて、ふとユイリは今の状態に疑問を感じ始めた。実験をこなして行くだけなら、なぜ自分とコミュニケーションをとる必要が有るのだろう か。そして実験自体、いったい何を目的としているのか。だから感じた疑問をそのままシェンの姿をした物にぶつけた。
「あなたの目的は何なの?いったいどうしてこんな実験を繰り返しているの?」
 その実験の目的が分かったからと言って、人類が助かるという保証はなかった。こうしている間にも人類は滅亡しているのかも知れない。しかし、実験の目的 がユイリの心に引っかかったのだ。しかし、シェンの姿をした物から返ってきた答えは、ユイリにとって期待はずれのものだった。
「実験の目的かい?残念ながら私にも分からないんだ」
 初めてと言っていいだろう。シェンの顔をした物は、作り物でない困惑を浮かべていた。その表情を見た時、ユイリは初めて足がかりを得たと思った。目的が わからずに実験をしている。そこにどういう意味があるのか。目的を忘れてしまったのか、もともとそれを知らないのか。もし目的を知らずに実験を始めたのな ら、実験を始めるきっかけは何なのか。
「あなたは、何の目的もなく実験を繰り返していたというの!」
 なら実験を止めることもできるのではないかと。
「目的は……有ったはずだ。そうでなければつじつまが合わない……」
 しかし、シェンの姿をした物は本当にその目的を知らないようだった。
「目的が分からないのなら、新しい実験なんてしなくてもいいじゃない。私たちをこのまま放っておいてよ」
「……それはできない。目的は忘れているが、データをとらなくてはいけない事は覚えている。まだ目的の量まで、ぜんぜん足りていない」
「目的の量って何よ。実験の目的が分からないのに、どうしてどこまでデータを集めればいいのか分かるのよ!!」
「君の言っている事は論理的には正しい。だからと言って終わった実験を放置する影響も問題だ」
「どう問題なのよ!!」
「それが分からないから問題なのだ。分かっている問題なら、修正可能ゆえ問題とならない」
 哲学論議をしているのだろうか?シェンの姿をしたものと話しながら、ユイリはそんな感覚に囚われていた。目の前の存在と自分とでは、根本的に存在が異な るのだ。そんな相手に向かって説得する事に、どれほどの意味があるのかユイリには分からなかった。だからと言って、せっかく掴んだ最後の希望を捨てるわけ にもいかなかった。
「なら、私たちを新しい事例を得るための機会にすればいいじゃない!」
「傾聴すべき意見ではあるが、残念ながらそれをする権限は私にはない」
「なら、誰がその権限を持っているの」
「知らない。私の知っているのは、私にその権限が無い事だけだ」
 まるで性質の悪い役人との会話だ。哲学論議よりも悪い方向に来たと、ユイリは頭痛を感じ出した。
「それなら、どうして私とコンタクトしたの?」
「それは簡単だ。君の存在は、この実験の中で、いや、実験計画の中で君の存在はイレギュラーだからだ。イレギュラーを調べるのは、私の役目でもある」
「私がイレギュラー?どういうこと」
 一つの個体に、シンジとユイリ、その二人が存在したことなのかとユイリは想像した。確かに自分のような存在は、自然界から生まれいずる物ではないのだ。 だが彼の言うイレギュラーは、そんなことではなかった。
「ここに意志を持ったものが存在すると言うことがイレギュラーなのだよ。君たちの存在は、混沌の中に入るとき、その流れに飲み込まれ霧散してしまうはずな んだ。それがこうして意識体として存在している。それをイレギュラーだと言ったんだよ。だから私はその理由を確認するため、君と接触してそれを調べた」
「どういうことなの……それは。その理由は何だったの!」
「どうやら君の乗ってきた乗り物が、拡大するエントロピーに耐えきれず消滅したとき、何かが君の意識を守ったらしい。それが混沌の圧力を君の代わりに受 け、自ら消滅させながら君の意識を守ったというのが私の推定だ」
「何かが、私を守った……」
 それが何であるのか、ユイリに分からないわけがなかった。それをなし得るのは、碇シンジしかあり得ないのだ。
「それすらイレギュラーなことなのだよ。本来なら、そのような方法でも君の意識を守ることは出来ないはずだった」
「シンジが……私を守ってくれた……」
 それを思った時、ユイリの瞳から涙が一粒流れ落ちた。
「君には心当たりが有るようだね。ならば、そこに落ちている物は君が持っている方がいいだろう」
 そう言ってシェンの姿をした物は、初めにユイリの視界に入った小さな光の点を指さした。先ほどまでは、見ることしかできなかったその光点は、彼の許しを 得たおかげかユイリの手のひらの中にその位置を変えていた。そしてそれがユイリの手のひらに触れたとたん、その光ははじけるように強く光り、そして次の瞬 間には何もなかったようにユイリの手のひらから消え去っていた。だが、そのほんのわずかな触れ合いの中で、ユイリはそれが何であったのかをはっきりと知覚 した。それは地獄にも等しい娼館生活の中で、シンジの心を支え続けたアスカへの思いだった。最後まで残ったと言うことは、それだけ大事に心の中にしまって いたと言うことなのだ。それを知った時、ユイリの胸を張り裂けんばかりの痛みが襲った。
「ああっ、シンジっ!」
 消えてしまった光を、ユイリは慌ててかき集めようとした。しかしいくら探してみても、もはやどこにもシンジの心は見つからなかった。最後に残ったシンジ の心の欠片は、混沌の中に弾けて消えてしまったのだ。結局ユイリの元に残ったものは、最後までシンジが大切にしていた“思い”だけだった。シンジの心を掻 き集めることを諦めたユイリは、視線を『研究員』に転じた。そしてユイリは縋り付くようにして、彼に懇願した。彼ならシンジを戻すことができると信じて。
「お願い、あなたなら彼を取り戻すことが出来るでしょう!!お願いだから、私の所にシンジを戻してちょうだい!!」
 心から血を流すようなユイリの願いだった。しかしシェンの姿をした物は、ユイリにそれは出来ないと答えた。増大したエントロピーの中に消えてしまったシ ンジの心は、たとえ掻き集めることが出来たとしても元の情報を失っていると言うのだ。そもそもこの世界に、色の付いたものは存在しないのだと。もうシンジ の心は戻らないと言うその話に、ユイリはその場に崩れ落ちていた。そして無駄だと言われたのにも関わらず、何もない空間からシンジの心を集めようと必死で 両手を振り回した。
「ああっシンジ、シンジ……私の大切なシンジ!」
 慟哭するユイリの様子を、気の毒そうにシェンの姿をした物は見つめていた。不思議なことに、初めの頃に比べて彼は、“人”らしい感情を備え出していた。
「なるほど……君がここに存在でるのは、彼のおかげなのか……」
 シェンの姿をした物は、そう言うと何かを考えるように遙か遠くに視線を向けた。そして次の瞬間、現れたのと同じく唐突にその場から消え失せた。後にはユ イリが初めに気がついたときと同じ、何もない暗闇だけがユイリを包んでいた。それに気づいたユイリだったが、その時はすでに遅く、いくら叫んでも何も返っ てこない空間だけがそこに残されていた。
「どうしてよ……あたし一人、どうしろって言うのよ」
 普段周りにいた者は知らないことだが、ユイリは決して強い女ではなかった。冷静・大胆、様々に形容されたユイリだったが、その本質はとても弱い女だっ た。すべてはシンジの庇護があったからこそ、ユイリは超然と構えることが出来たのだ。シンジの存在こそがユイリを強くし、彼女が自分自身の姿を保つために 必要なものだった。その点、ユイリがシェンに話したことは事実ではなかった。シンジを失うことにおびえていたのは他ならぬユイリ自身だったのだ。
 そしてもう一つ、ユイリは消えていくシェン達の心を感じ取っていた。シェンの姿をしたものと話をしているとき、身体全体を突き抜けていく心に地球の消滅 を感じたのだ。彼らの心もまた、混沌への突入と同時に増大するエントロピーに飲まれ、拡散していったのだ。
 すべてを失ったユイリにとって、消滅は恐怖ではなく救済でだった。守るものを失ったユイリは真剣に、自身の消滅を願った。だが慈悲ともいえる救済の手 は、ユイリには差し伸べられることはなかった。
「なんでよ……今更残ったとしても、もう何もないのに……」
 そう嘆き悲しんだところで、ユイリの意思が混沌の渦に消えることは無かった。それはまるでその渦の中で、ユイリ自身の存在が安定してしまったかのよう だった。
「こんなところに一人で居たって、何にもならないじゃない!!」
 ユイリのあげた悲しい叫びも、この世界の中では何の意味も持たなかった。初めと同じ、何も無い空間はユイリの声を響かせることも無かったのだ。ユイリは “混沌”の世界の中に、たった一人残されてしまった。時間の経過も存在しない世界にただ一人の存在。ユイリは永久の牢獄に繋がれる事になったのだ。シェン の姿を借りた、自身を『研究員』と名乗った存在も、ユイリのことを忘れたかのように姿を消してしまった。彼ならば、ユイリをこの世界から助け出すことが出 来たかも知れない。しかし今のユイリには、その『研究員』を呼び出す術も無かった。
「誰でもいい!!私をここから解放して。みんなと一緒に無へと返して!!」
 無駄とは知っていても、今のユイリには叫ぶ以外に出来ることはなかった。







続く

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