時間も何も無い世界に、人というのは適応することが出来るのだろうか。そんな環境にいきなり放り込まれたユイリは、意外にも容易にその環境に馴染
んでいた。もちろん他にどうしようもないと言う事情があったのだが、この後どうしようかということを冷静に考えることが出来るようにはなっていた。もちろ
んユイリとて、ここに至るまでさまざまな葛藤は有った。特に“研究者”などと名乗る者が消えた後などは、己の境遇を呪いもした。だがそれも、ユイリの中で
は“過去”として認識されるようになっていた。そうすることが出来なければ、狂うことも出来ない状況下、ユイリは永劫の苦しみを味わうことになってしまう
のだ。
あまりにも違う格を見せ付けられたせいで、ある意味ユイリにはあきらめが出来ていた。努力が至らなかったとか、サボったとか、適任ではなかったと言う世
界ではないのだ。ある意味神よりも相手が悪いと言えただろう、何しろ機械的に作業をこなし、慈悲など持ち合わせていない存在が相手だったのだ。その点がユ
イリとシンジの違いだったのかもしれない。ユイリの心に有ったのは、“これから”自分はどうなるのかと言う不安だけだった。何しろ意識だけが存在している
ように見えるのだ。それだけで、未来永劫永らえると言うのは、適応したところで責め苦には違いないのだ。
「これが夢なら、目をつぶったところで元に戻るんですけどね……」
何も見えないのに、目をつぶると言う行為が意味を為す訳が無い。しかし半分気まぐれから、ユイリは“目”をつぶってみた。
目をつぶっては見たが、それが馬鹿げた行為だと思い直しユイリはすぐに目を開いた。こんなことで現実から逃げてみたところで、後に残るのは失望だ
けなのだと。だが、目を開いたユイリの周りの状況は一変していた。目の前には当たり前のように光が差し、ユイリの耳には人のざわめきが飛び込んできた。そ
して自分の前では、一人の少年が自分の顔を覗き込んでいるのだ。その少年は、明らかに迷惑そうな表情を浮かべてユイリの肩を揺らしていた。どこかで見た顔
では有るのだが、ユイリにはその少年を思い出せなかった。だがユイリの思惑とは別に、唇は勝手に言葉を紡ぎ出していた。
「はれっ、どうしてシンジがここに?」
ユイリは自分の口から出た名前に、心の中で盛大に驚いていた。シンジ、シンジ……その名前の心当たりと言えば碇シンジしか居ないのだ。ならばなぜシンジ
が目の前に……驚きの後、ユイリは大きな困惑を迎えていた。だが、一方の少年は、ユイリの態度にあからさまにため息を吐いていた。
「ユイリ、また僕を“殺した”の?」
「……またって何よ!」
そう言いながら、ユイリはだんだんと頭がはっきりとしてくるのを感じていた。そうそう、これは愛しのお兄様ではないかと。
「ユイリが僕を名前で呼ぶ時は、いつも夢の中で僕がユイリをかばって死んだ時だろう?夢の中のことまで文句を言うつもりは無いけど、頼むから授業中に寝る
のだけはやめてくれないかな?先生が僕のほうを睨むんだ」
「だって、下高井戸の授業って退屈だもの。でも何で下高井戸がお兄ちゃんを睨みつけるの?」
「ユイリに何を言っても無駄だと諦めているんだろ?」
「で、保護者のお兄ちゃんを睨みつけるんだ」
少しも懲りていない妹に、シンジはもう一度ため息を吐いて見せた。もちろんこれくらいで応えるようなら、とうの昔にユイリの生活態度は改まっているはず
だ。意味のないことぐらいはシンジも理解していた。
「僕はユイリの保護者のつもりは無いんだけどね」
「そんなぁ、可愛い妹じゃない。お兄ちゃんがかばってくれても、世間は許してくれるよ」
「妹って、おんなじ日に生まれたんだろ」
「そこはそれ、世の中の決まり事ってことよ。世間では私が妹って認知されているんだから、諦めなさい」
「そんなことはとっくの昔に諦めているよ。それより、今日はみんなでお昼を食べるんだろう?早く行かないとトウジが騒ぎ出すよ」
「ごめんごめん、すぐに行くからお兄ちゃん先に行って謝っておいて」
「先には行くけど、謝るのはごめんだよ」
シンジはそう言うと、自分のお弁当箱を持って教室を出て行った。その時、ユイリの耳には再び周りの音が聞こえだした。
「……夢……なのかな……」
たった今まで見ていた世界を、ユイリは夢だったのかと考えた。その証拠に、生まれてからこれまでの記憶はちゃんとあるのだ。自分の名前は碇ユイリ。父親
の名前は碇ゲンドウ、母親はユイ。双子の兄の名前は碇シンジ。2001年の6月6日、ふたご座の生まれ。小学校から中学校まで、兄とはずっと同じクラスで
育ってきた。初恋の相手は、いつも顔を見て暮らしてきた実の兄。表向きに初恋の相手は小学校の先生としてあるので、そのことを知っているのは誰もいない。
そしてその初恋は、未だに続いている。生まれてこの方14年、兄以外の男の手を触れたのは運動会のフォークダンスだけだ。もちろん龍家次期当主シェン・ロ
ンも世界を救う女神の惣流アスカ・ラングレーも知り合いにはいない。
「いけない、いけない。またお兄ちゃんに愚痴られる」
少しぼうっとなりかけたのに気づき、ユイリは慌ててお弁当を取り出した。優しい兄なのだが、時々小言が多くなるのだ。その原因を作っているのはすべて彼
女なのだが、もちろんユイリにはその自覚が有ろうはずはなかった。ユイリは机の中から弁当箱を取り出すと、羽が生えたように軽やかに教室の外へと走り出し
ていった。
盆地に位置する第三新東京市は、首都機能移転の地として選ばれ、都市の整備が行われてきた。かなり開発は進んでいるのだが、それでも周りは山々に
囲まれ、目には自然の緑がすぐに飛び込んでくる環境だった。ユイリ達はそんな自然を愛し、お昼の時間に屋上に集まって自然の空気の中で昼食をとるのを好ん
でいた。彼らのグループは、小学校の時から変わらぬ腐れ縁の碇兄妹、鈴原トウジ、相田ケンスケ、洞木ヒカリの5人に、今年になってから転校して来た従妹の
綾波レイが加わった6人組だった。その6人が輪になって座り、お弁当を広げながら話に花を咲かせるのだ。その内容自体、取るに足りないようなことだったの
だが、次第にお腹がくちてくると、いつものようにレイがユイリにちょっかいをかけ始めた。
「ユイリって、猫をかぶるのが本当に上手よね」
レイの言うことももっともなことである。学校などの他人の目があるとき、ユイリはそれこそ完璧に猫を被ってクールな美少女を演じている。しかし周りが気
心の知れた仲間となったときそれが崩れ始め、家族だけとなったときは兄にじゃれつく子供のようになってしまうのだ。それを知っているのはごく一部、しかも
非常に親しい仲間だけである。それ故ユイリを、冷静沈着、クールな美少女と信じて疑わないファンが多数存在していた。
「レイさん、それは誤解ですわ。皆さん正しい認識をなさってらっしゃいます」
そんなレイの言葉を、わざとらしく言葉を選びユイリは言い返した。もちろんレイの発言の真意がそんなところにないことぐらい、ユイリも知り尽くしている
ことだった。
また始まったと、その場にいた全員は思った。彼らの昼食の時間に行われる恒例行事、綾波レイとユイリの白熱の一戦である。この二人、普通は回りに敵を作
らないのだが、ことレイにとっては、ユイリの存在は目の上のたんこぶなのだ。レイとしては何とかシンジと二人っきりになろうとするのだが、どういうわけか
ことごとくユイリに邪魔をされるのだ。
「いいかげんユイリも、ブラコンから卒業したら?何時までも夢の王子様じゃないでしょ?」
「レイさんも、従兄弟だなんて手近なところにお相手を求めなくてもいいんじゃなくて?」
だがこの勝負、レイに有利に動くことは有りえない。シンジの彼女になろうとしたとき、妹を敵に回すのはどう考えても得策ではないのだ。シンジがユイリの
敵に回ることがない以上、レイに有利に働くことはない。
散発的な言葉の応酬は、熱を帯びて来るに連れマシンガンのようにお互いの口から飛び出すようになっていった。
「なあシンジ……毎度のことやけど、わいはお前を尊敬するわ」
その様子を脇目に、うんうんと頷きながら、トウジはしみじみと言った。長い付き合いから、周りに羨まれるほどシンジがいい目を見ていないことを知ってい
るのだ。
「“尊敬”を“同情”に置き換えても同意できるね」
ケンスケの言葉に、シンジはうな垂れて同意を示した。その頃レイとユイリの言い合いは、小さなころからのお互いの寝相にまで言及していた。その泥仕合ぶ
りに、ヒカリを含めた4人は口を挟もうとはしなかった。そのこと自体無駄としか言いようのない行為であるのに加え、時にはユイリとレイが共同して刃向かっ
てくるのだ。かつて無謀にもケンスケが口を挟んだ時、手のひらを返したように二人は共同戦線を張ってケンスケを撃退したのだ。それ以来、彼らは徹底した不
干渉を決め込んだ。
「父さんなんか泣いていたよ。何しろユイリの夢の中じゃ、いつも子供を虐待する悪人なんだもの。母さんもおかしな実験で死んでいることになるし……」
「それにユイリって、碇君べったりでしょ?そのせいで変な噂も立ってるしね。ほんとに噂だけ?」
「洞木さん、勘弁してよ……そのせいでユイリのファンに狙われているんだから」
ううっと、シンジは再び頭を垂れた。その噂は回りまわってシンジの耳にも届いていた。それは、兄と言う立場を利用して、近親相姦に近いことを強要してい
ると言う笑えないものだ。特に今日みたいに“夢”を見た後には、潤んだ瞳でシンジを見つめるものだから、その噂は根強く消えることは無かった。
「で、今度はどんな夢だったの?」
「洞木さんまで……」
自分が殺される夢と言うのは気分のいい物ではない。だがその内容を語るべきユイリは、ただいまレイと一戦を交えているところなのだ。結局シンジは、トウ
ジやケンスケにも催促されることになるのだ。
「ユイリは、いつもの通り華僑の大物の秘書になって、波乱万丈の末二人は愛を確かめ合うと言う内容だって。結局地球を守るために出撃した僕とユイリが、敵
を撃退することが出来なくて、そのまま悲劇の終焉を迎えるってやつ」
「なんや、ワンパターンやな。またシェンにアスカかいな」
「そうそう。今度もカヲル君と三角関係になるんだって。二人の愛にゆれたユイリは、結局シェンの元に走るそうだよ」
「でも、最後は破滅なんて……やっぱり変わっているわね」
「それで、いつも僕はユイリを守って最初に死ぬんだ……」
「好かれているんだよ……たぶんな、言い切る自身はないけど」
「ケンスケ……夢の中とは言え、毎回殺される方の身にもなってよ」
「俺は写真オタクだろ?それに比べればましじゃないか」
横で聞いていたトウジは、ケンスケの言葉に関西人の血が騒ぎ出すのを抑えていた。「まんまやないか」と突っ込みたいのだが、その後に続けられる講釈を聞
かされるのはまっぴらなのだ。以前知らずにつっこみを入れたとき、オタクとプロを目指す者の違いを延々と講釈されて閉口したのをトウジは思い出し
「夢のことだろ?誰も本人に文句が言え無いじゃないか。父さんたちなんて、本気で心配を始めているんだから」
そう言うシンジの脇では、二人の美少女が器用にお弁当を摘みながら壮絶な舌戦を繰り返していた。
学校内で囁かれる噂の信憑性はさておき、碇兄妹の関係は極めて近しいものだった。もちろん一説に囁かれる近親相姦的なことは無いのだが、ユイリが
兄のベッドに潜り込むのは珍しいことではなかった。はじめはそのことを心配した両親だったが、絶大なる信頼を勝ち得た兄のおかげかしばらくは静観すること
にした。その一つの原因が、ユイリがベッドに潜り込んでくる理由を聞かされたためである。今日のようなおかしな夢を見たとき、必ずその夜にユイリはシンジ
の元を訪れていたのだ。
「ごめんね……お兄ちゃん」
いくら双子でも、ユイリはもっとも身近な異性なのだ。普段はそう言うことを感じないシンジでも、薄手のパジャマから伝わる温もりにそれを自覚しないわけ
には行かなかった。しかも、最近めっきりと女らしい身体になってきた妹なのだ、小学校の頃とは訳が違っている。
「いつものことだよ……僕で役に立つのなら、いつでも頼っていいんだよ」
「でも、ユイリのせいで変な噂まで立って……」
「可愛い妹を持った代償だと思っているよ……それに、現にこうしている」
「だって、お兄ちゃんは何もして無いじゃない」
「それでもさ、こうしてどきどきすることは出来るよ」
「……ユイリは、お兄ちゃんだったら……いいよ」
妹と言うことを差し引いても、ユイリはとびっきりの美少女なのだ。そんな妹に、潤んだ瞳で迫られればぐっと来るものである。慣れたと言っても、シンジに
も忍耐のいるところだった。
「そんなことをしたら、ユイリの将来の旦那様……シェン・ロンって言ったっけ?彼に殺されるよ。もっともその前に父さんと母さんに絞められる気がするけど
ね」
少しおどけていったシンジだったが、ユイリの顔は思い詰めたままだった。
「私って、おかしいのかな?だんだん夢がはっきりとしてくるの。シェン様にしてもそうなんだけど、アスカやレイのことも……」
「綾波もかい?」
「うん、性格はだいぶ違うんだけどね。レイは見ているこっちが切なくなるほど、お兄ちゃんのことを愛してた」
「今の綾波からは想像がつかないね……」
「だって後6年後の話だもの。あの子だって、その頃には身を焦がす思いはするわよ」
「6年後か……そこで僕はアスカを選ぶのかい?」
「ううん、結局お兄ちゃんは誰も選べなかった……最後の夜に別の人と寝たんだけど、その人を選んだって訳じゃないから」
「……なんか、酷い男だね……その僕は」
「そんなこと無いよ。とっても優しくて、強くて……でも、少し傷つきすぎて、臆病になっていただけ」
「それでもね、やっぱりユイリの夢の中に出てくる僕は許せないな……」
『そんなことない』と言いかけたユイリの唇を、シンジは人差し指を当てて止めた。
「だって、最後にユイリを一人残して行くんだろ?ユイリを一人寂しいところに残してさ」
「……でもシンジは、すべてを賭けてユイリを守ってくれたんだよ……」
「それだけじゃ足りないんだよ。大切な人のため、命を捨てることは簡単なんだよ。でもね、後に残された人のことを考えて、何が最善かを考えるのは難しいん
だ。もしそのシンジが、ユイリを守ったことで、ユイリが永劫の苦しみの中に置かれたとしたら、それがユイリのためになったなんて言え無いじゃないか」
「でもユイリはうれしかったよ……」
「でも悲しくも有ったんだろ?」
思い出したのだろう、ユイリは鼻をぐすんとすすって頷いた。そんなユイリの頭を、シンジは慰めるように優しく抱きかかえた。
「だから僕はユイリに悲しい思いをさせない。シェン君が迎えに来るまで、側を離れないからね」
「なら私は、アスカが現れるまでお兄ちゃんに変な虫が付かないようにするね」
「勘弁して欲しいなぁ。これで彼女居ない歴14年だよ」
「いいから、それまでは私がお兄ちゃんの彼女になってあげるから」
そう言ってユイリは大きなあくびをすると、布団の中に潜り込んだ。
「なってあげるからって……ユイリっ!」
「ただいまユイリは睡眠中です。ご用の場合は、申し訳有りませんが翌朝にお願いします!なお、あんなことやこんなことなら、特別に受け付けます。ご遠慮な
くどうぞ!!」
「そんなまねする分けないだろ……まったく」
そう不平を言いながら、シンジはずれていた布団をユイリに掛けようとした。その時、ごくりとシンジののどが鳴ったのは仕方がないだろう。薄手のパジャマ
から覗くユイリの素肌は、14歳の少年にはいささか刺激的なのだ。
「まったく、こっちの理性の限界というものを考えて欲しいよ……」
「……理性をかなぐり捨て、二人獣のように貪り合って……」
「馬鹿言ってんじゃないの。子供は早く寝なさい!!」
「はぁ〜いぃっ!」
そう言って布団をかぶったユイリは、しばらくもぞもぞとしていたが、シンジの腕を捕まえると動かなくなり、やがて静かな寝息が漏れ出すようになってい
た。
そのままじっとユイリのなすがままにしていたシンジだったが、ゆっくりとユイリの腕をはずすとベッドから起きあがった。そしてユイリがぐっすりと眠って
いるのを確認して、シンジは父母の待つ居間へと出ていった。父から、ユイリには秘密の話があると言われていたのだ。
シンジが父から聞かされた話は、にわかには信じがたいものだった。この世界において、ユイリの言うような発見はなされていないのだが、こと人物関
係に関してはユイリの夢が現実と重なるというのだ。
「でも、テレビとかで見た話を、たまたまユイリが心の深層で覚えていただけじゃないの?」
大まじめな顔で語るゲンドウに、考えすぎだとシンジは水を差した。それほどの有名人ともなれば、テレビで紹介されることも有るだろうと。だがゲンドウは
そんなシンジの考えをいくつかの物証をあげて否定して見せた。
「確かにそう言うことも考えられる。だが、龍家に関しての詳細な情報はメディアには載らないものだ。しかも焦臭い権力闘争など、簡単に表に出るものではな
い。事実、龍家当主は龍統貴と言い、そのただ一人の孫の名前はシェンと言う」
「たまたまユイリの妄想通りだったってことは?」
「当然その可能性は考慮した。従って他の面でもユイリの夢の検証を行ってみた。惣流アスカ・ラングレーと言ったかな、お前の彼女の名前は?」
「そんな、見も知らないのに彼女の訳がないだろう!」
照れて言うシンジを無視し、ゲンドウはさらに言葉を続けた。それはシンジにとって、衝撃的なことでもあった。
「それが実在したのだよ。写真を取り寄せてみたのだが、まさしくユイリの言ったとおりの容姿をしていた」
見てみるかとゲンドウは、その写真をシンジに渡した。写真には、少し勝ち気そうな赤毛の少女が誰かに向かって微笑みかけている姿が映し出されていた。そ
の写真を見たとき、なぜかシンジは胸が苦しくなってくるのを感じていた。
「惚れたか?シンジ」
息子の様子を観察していたゲンドウは、神妙な顔をしているシンジに向かって茶々を入れた。そんな父親に、普段なら軽くかわすことが出来るシンジなのだ
が、今日に限ってはそれどころではなかった。
「違うんだ……父さん。この写真を見ていると、なぜか……懐かしいんだ。それに胸が苦しくなってくる……ねえ、彼女が本当にユイリの言っていた『アスカ』
なの?」
「それは分からん。一致しているのは、彼女と母親の名前だけだ。それに、ユイリの夢とは違い、彼女は大学を飛び級で卒業などしていない」
「そのほかの人たちは……?」
「そこまでは確認できなかった。シェン君の筋から、マイケル君までは発見できたが、グロリア、ステファン、渚カヲルなどは発見できなかった。それに葛城ミ
サト以下の人物は、儂の会社にいるからな。これは証拠にはなるまい」
「冬月先生は、私たちの恩師ですからね」
そう言って母親のユイが付け加えた。
「それ以上は、儂の力では検証不能だ。だが、一つ言えるのは、ユイリの夢が現実と奇妙な一致をしていると言うことだ。簡単に夢だと笑い飛ばすには、符合す
るものが有りすぎる」
「でも、それだったら……」
「そう、肝心な点では現実は大きく異なっている。2000年にセカンドインパクトなる災害は起きていないし、人類補完計画など儂の知る限りでそんな金の動
きはない。むろんE計画なるものの国連の案件には上がっていないし、ジオフロントなるものは、ここ箱根の地には存在していない」
「それにね、シンジ……私はあなた達を残して死んでも居ないし、この人も子供を道具にするような酷い人じゃないわよ。不倫はね、私の知らないことだけど」
「な、何を言うかユイっ!!儂は天地神明に誓って、お前だけだ!!」
「分かってますよ。あなたがとっても不器用な人なことは」
不毛なことを言い出した二人に、シンジはこれで話が終わったものだと理解した。ここから先は、夫婦の間のレクリエーションである。子供が口を出すことで
はない。いい年をしてと思わないこともないのだが、人それぞれ自由なのである。
「勝手に寝るね」
シンジはそう言うと、一人自分の部屋へと戻っていった。すでにゲンドウとユイは、シンジのことを忘れたらしく、完全に二人の世界へと突入していた。
忍び足で部屋に戻ったシンジだったが、ユイリを誤魔化すことには失敗したようだ。その証拠に、シンジがベッドの中に滑り込んだとたん、ユイリの白
い腕がシンジの首へと絡んできた。
「起こしちゃった……起きてたの?」
ユイリの手を気にすることなく、ユイリは体勢をなおして布団をかけ直した。微妙にめくれ上がったユイリのパジャマも、今度は気にならなかった。シンジの
心は、父親に告げられた事実をどう解釈するかに占められていた。一方のユイリは、何があったのか知りたくて、シンジの身体にのし掛かるようにして質問をし
てきた。
「ねえ、お父さん達……なんて言っていたの?」
「ユイリ、その体勢は危ないよ」
「はぐらかさないでよ!」
そう言って、ほとんど顔が触れ合うぐらいの距離にユイリは詰め寄った。夜目でも、ユイリの真剣な表情がシンジの目に飛び込んできた。
「うん、ユイリの言ったとおり、シェン・ロンもアスカも実在した」
「……実在……したの?」
「アスカなんか、ユイリの言ったとおりの見た目だった」
「そうなんだ……」
シンジにとって予想外だったのは、シェンの実在を聞いてもユイリが喜んだそぶりを見せなかったことだ。少なくとも“愛しのシェン様”が存在したのだ、喜
んでもおかしくないとシンジは思っていた。
「ユイリはうれしくないのかい?シェンが実在したんだよ」
だがユイリから返って来たのは意外な答えだった。
「夢の中の人が実在するって言われても気持ち悪いだけよ。だってそうでしょう?会ったこともない実在する人が、どうして私の夢の中に出てくるの?その人と
夢の中では恋人同士になってセックスまでするのよ。信じられないわよ!!」
そうユイリは大声を上げた。夢は夢であり、現実ではない。夢の中の王子様は夢の中に居てこそである。それが現実に存在すると言われても、ぴんとこないど
ころか気持ち悪いものを感じても仕方ないだろう。さらに、夢が現実と重なると言うことは、大切な兄の死も重なるかもしれないと言うことなのだ。王子様が実
在したことよりも、ユイリにとってはその方が重大なことだった。人知れず兄を思っているユイリにとって、夢など実現しない方が良かったのだ。
「確かにそうだね。でも、僕はアスカの写真を見せられたとき胸が苦しくなった。父さんには『惚れたのか』とからかわれたけど、とても冗談とは笑えなかっ
た……」
ユイリの憂慮を気づくわけもなく、シンジはアスカの写真を見たときのことをユイリに話した。単にきれいな子を見たときと違う反応を示した自分の心を、シ
ンジもまた持て余しているのだと。だが、そんなシンジの言葉はユイリの耳には届いていなかった。
「私っておかしいのかな?どうしてあんな夢を見るんだろう。ねえ、私が何か悪いことをした?わかんないよ……ぜんぜん」
そう言ってユイリはシンジの胸にしがみついてきた。柔らかな胸を押しつぶし、ユイリの身体は密着するようにシンジへと押しつけられていた。それでもユイ
リには足りなかった。もっともっとくっついて温もりをもらわなくては、心が凍えてしまうとユイリは震えていた。
「大丈夫だよ。ユイリの見る夢はね、きっと何か大事な、そして忘れてはいけないことをユイリに伝えようとして居るんだよ」
シンジはユイリの身体を抱きしめる代わりに、ユイリの長い髪の毛を掬うようにしてゆっくりと頭を撫でた。大きな手のひらから伝わる温もりに、強張ってい
たユイリの身体からも次第に力が抜けてきた。
「大事な……こと?」
「そう、どこかの世界のユイリが感じた、忘れてはいけない大事なことさ」
「どこかの世界の……私?」
「あくまでたとえばの話だよ。でもね、その思いを受け取ったからと言って、ここに居るユイリがそれに縛られることは無いんだ。ユイリはユイリで、自分だけ
の大切なことを見つければいいんだ」
「大切なこと?」
「大切な人でもいい……それに、これはきっかけに過ぎないと思えば気が楽だろう?」
「きっかけ?」
「そうだよ。人と人が知り合うきっかけなんていろいろあるだろう?その一つだと思えばいいんだよ。そう考えれば、夢の中の恋人だなんて結構素敵だと思わな
いか?」
「おにいちゃんはアスカが気に入ったの?」
「どうだろう?写真を見ただけだろ、ユイリの話に出てくるからと言って、実際には有ったことも無いんだから実感が湧かないよ」
「じゃあユイリにしておこうよ。ユイリはお兄ちゃんのことが大好きなんだから」
「そう言う冗談が言えるのなら大丈夫だね。もう遅いから寝ようか?」
「……冗談じゃないのに……」
「はいはい、じゃあそう言うことにしておこうね」
「しておかなくてもっ!もう……」
わざとらしく寝息を立てるシンジに、ユイリはアスカのように襲ってやろうかとも考えた。だが、アスカの迎えた悲しい結果を思い出し、すぐにその考えを思
いとどまった。それならばせめて裸で誘惑してやろうかと、ユイリはパジャマのボタンに手を掛けた。だがその計画も、ごつんと一つ拳骨をもらって泡と消え
た。シンジは片手をボタンにかけ、もう一方の手で痛む頭を押さえているユイリに言った。
「……一人で寝る?」
そう振られては、ユイリも大人しくなるしかなかった。いつもは優しい兄なのだが、厳しいときにはとても厳しくなるのだ。渋々とボタンに掛かっていた手を
離すと、ユイリはシンジの寝ている布団を引っ張ってその中に丸くなった。
「いっしょに寝るわよ!」
確かに得体の知れない恐怖は、ユイリの中から消え失せていた。
子供達が一応の折り合いをつけた頃、碇夫婦もまた一つのベッドに収まっていた。誰憚ることのない夫婦なのだから、こちらにはユイリの抱えているよ
うな問題はない。静かな寝息を立てている妻の横で、冷えていく汗を感じながらゲンドウは子供達のことを考えていた。こと娘の問題は深刻だった。もちろん娘
の夢の中で、自分が酷い男だからと言うことではない。たとえ娘の夢の中で自分がいかに酷い父親であったとしても、それはまだ許容することが出来た。現実の
世界では、自分は妻や子供達を愛していると断言できるからである。だが、同じ夢を繰り返し見続け、その夢の内容が次第にはっきりしてくると言うのはどう考
えても異常なことなのである。しかもその夢が、娘にとってつらいものであるのならなおさらである。夢の中の人物が実在するかどうかなど、彼にとっては些細
なことでしかない。一番の問題は、その夢によって娘の笑顔が失われないかと言うことだった。
その点、自分が娘にしてやれることは限られている。ゲンドウはそれが残念でならなかった。娘のことに関しては、息子に頼りっぱなしなのである。不安にお
びえる娘を、はげませるのは息子だけなのだ。今はそれがうまく行っているが、それもいつまでも続けられる物ではない。もちろん彼は、娘の息子への思いに気
づいていた。 娘が、レイを息子から引きはなそうとしているのは、夢に出てくる“アスカ”の為ではない。娘にとって、息子の存在は恋人と同義なのだ。理性
では妹と言うことを理解しているのだが、だからこそそれ以上の立場になれない腹いせがレイに向けられていたのだ。従妹であるレイなら、シンジの恋人にもそ
れ以上の関係にもなれる。娘のレイへの態度は、そのことへの羨望と嫉妬から来ていることは分かっていた。
ゲンドウは、そのためいつまでも息子に頼るわけにもいかないと考えていた。今はまだ息子は理性を保っている。だがこれからますます娘は美しくなり、女ら
しさを増してくるだろう。しかも娘には、兄とと言うことへの禁忌が薄いようだ。そんな妹を相手に、いつまでも理性を保っていろなどと強いるのは、いささか
可哀想な息子への要求なのだ。
「私は親としては失格なのかもしれんな」
そう言ってゲンドウは自嘲した。このまま成り行きに任せればいいとも思えてしまうのだ。たとえ二人が一線を越えたところで、それにどれほどの問題があろ
うかと彼は考えていたのだ。兄弟という倫理観さえ遠い星の海の中に捨ててしまえば、後は戸籍の改竄でもすれば解決してしまうのだ。可愛い娘を、どこの馬の
骨とも分からぬ男にくれてやるぐらいなら、その方がどれだけましなことだろうと。
そこまで考えて、自分が安易な解決方法を考えていたことにゲンドウは気づいた。それは娘の問題の根本的な解決になっていないのだ。
「宇宙規模の実験か……」
そう呟くとゲンドウは、その意味を想像するかのように瞳を閉じた。
「あながち不可能と言えないところが恐ろしい……」
娘の夢を実現するためには、いくつかの技術的問題が横たわっていた。しかし、逆に言えばその問題さえ解決できれば、娘の言う実験を行うことは可能なこと
でもある。
「“混沌”か……エントロピーが増大した果て……」
宇宙の始まりだな、とゲンドウは思った。そしてガイア、ウラヌス、ポントスの神々が……
「ならばユイリは、カオスの中から生まれ出たガイアか……」
口から出た名前に、ゲンドウはその馬鹿な考えに苦笑を浮かべた。ユイリは自分の娘、人間なのである。神という曖昧な存在などではない。
「だが、時間の流れは決して一定ではない。ユイリの言うとおり、時の流れの無い世界が存在するとなれば、その界面はどうなるのだ……それを越える方法さえ
有れば、時間の問題も解決する……」
別に原理を知る必要はない。その存在を確認し、その利用方法さえ分かれば後は何とかなる。ゲンドウは、娘の夢の中に出てきた“研究員”なる存在も、混沌
を作り出したのではなく、それを利用しているだけの存在なのだと考えた。だからこそ、彼の常識に反して存在し得た娘を、彼はイレギュラーと称したのだ。
「いや、“研究員”こそ、界面を超えるための方法かも知れん……」
それなら、ユイリに対する主体性の無い態度も理解できる。所詮は小間使い、もしかしたらよくできたオートマトンかもしれない。
だがそれがどうしたことだと言うのだとゲンドウは考えた。この世界が、何者かの実験であったとして、それがどうだと言うのだと。今自分はこうして、“自
分”の意志を持って生きている。見えないものの影に脅え、今を見失うのは愚か者のする事だ。慌てるのは、脅威が現実の物となったときだけでいい。
その時ゲンドウは、突然意味不明の悪寒に襲われた。汗が冷えたのとも違う、心の芯から来るふるえだった。だがそれも一瞬のうちに過ぎ去り、後には何事も
無い平和な空間だけが残されていた。だがゲンドウは、その時感じた悪寒が錯覚などではないと感じていた。ほんの一瞬なのだが、娘に似た女の悲しい叫び声を
聞いたような気がしたのだ。
「ふん、ばかばかしい……」
少し自分は、娘の夢に毒されすぎたのだとゲンドウは自分に言い聞かせた。なまじシェンとかアスカとかが存在したために、そのことを気にしすぎたのだと。
そう気をとり直し、ゲンドウは散らばっている自分の下着を拾いあげた。単に汗が冷えただけなのだと思い直して。
ゲンドウは一度ベッドから出て、散らばっていた下着と寝巻きを身につけた。どうやら長い間自分の考えに浸っていたらしい、その体はすっかりと冷え切って
いた。
「おい、ユイ……」
ゲンドウは、妻を起こそうとして思い止まった。カーテンの隙間から差し込む月の光に、妻の裸体は青く輝いていた。その月明かりの中、妻の顔はこの上もな
くしあわせそうで、それをじゃまするのは憚られたのだ。
「明日は寝坊できるし……まあよかろう」
自分が横についていて、しっかりと布団を着ていれば風邪もひくまい。ゲンドウはそう考えて、妻の横に潜り込むと、その体を抱き寄せた。
「んん、あなた……」
ゲンドウに答えるように、ユイは寝言を言いながらしがみついてきた。その素肌の暖かさが、今のゲンドウには心地好かった。ゲンドウは妻の身体を抱き返し
ながら、今の幸せを壊すようなまねをする必要はないと思った。所詮、シェンもアスカも違う世界の住人なのだ。こちらから関わろうとしない限り、息子達と人
生が交わることもないだろうと。
「今日は月が明るいな……」
ゲンドウの視線の先には、燦々と輝く二つの月がカーテンから覗いていた。
終わり