2016年、サードインパクトと呼ばれる忌まわしい出来事から1年。人々は平穏を取り戻し、星空を見上げる余裕も生まれてきた。 2000年に起きたセカンドインパクトの影響で一時産業が潰滅したこともあり、夜空はまた美しい星空を取り戻していた。
 人々にも星空を見上げて、神話を語る余裕も生まれてきていた。











Neon Gensis Evangelion

Endless Waltz

- Prologue -












 ロシア共和国東部、旧シベリア地区。
 ここはセカンドインパクトの影響で、永久凍土に縛られた極限の大地ではなくなっていた。そこに広がる広大な原野は、食糧事情の改善のため大が かりな開発の手が入ったことで、今では世界有数の大穀倉地帯に変貌していた。その大きな変化は、その地に住む人たちの生活水準を引き上げ、そして働き口を 求めて大量の人口流入を招いた。穏やかな気候と、肥沃な大地。そして潤沢な労働力に支えられ、その地は秋になれば黄金色に染まるようになった。凍てついた 大地を知る人々は、いつしかそこを“奇跡の大地”と称するようになっていた。
 イワノフ=ツィンメルマンは、新たに入植してきた農民の次男として生まれた。彼は小さな頃から丘の上に寝転がって、満点の星空を眺めるのが大好きだっ た。夜になると彼は、緑のむせかえるような匂いの中時間を忘れて美しい星空に見入っていた。眼前に広がる広大な世界は、彼の探求心を大いに刺激してくれ た。いつしか彼は、夜に星を眺めているだけではあきたらなくなり、街の図書館で天文に関する蔵書を漁るようになった。そこで様々な知識を吸収した彼は、そ の活動範囲を大学にまで伸ばした。彼はそこでも貪るように本を読んだ。そして物好きな学生達が彼の教師となった為、ツィンメルマンの知識は瞬く間に拡大し て行き、いつしか教授達の間でも話題になるほどの物知りとなっていた。それは彼が14歳、日本では丁度使徒戦がまっさかりの時のことだった。
 そして彼が15歳になった年、父にねだって手に入れた望遠鏡で、彼は星空の撮影を始めた。農村のニューリッチ層となった父親にとっても、それは安い買い 物ではなかった。だがそれでも、息子の強い熱意に押されて、個人で持つにはいささかおおげさな望遠鏡を買い与えた。それを彼は、農場の端にある納屋を改造 した観測室に据付け、日が暮れると毎晩のように夜食を日参した。目標は新たな彗星の発見。彼は彗星に自分の名前を冠することを人生の最初の目標にしてい た。
 その日、ツィンメルマンはいつもの通り星空を撮影すると、すぐにフィルムを現像に掛けた。高感度CCDによる観測が全盛となった今だが、さすがにそこま で高額な装置を父親にねだることは出来なかった。そのため彼は、多くの手間がかかる銀塩式のフィルムを用いて毎晩観測をしていた訳である。ツィンメルマン は、現像のなったフィルムをコンピュータに取り込み、前日のデータとの比較を行うのである。昨日と今日、その間で撮影したデータに差異があれば、それが求 める物の候補となる。ただそこには変光星や流星、既知の小惑星なども写しこまれるし、はたまたフィルム上の埃もまた誤解の元となる。そのため彼は慎重に事 を確認し、インタネットで彼が観測している範囲の小惑星の動きもチェックしなければならなかった。
 毎晩行われる気の遠くなるような作業、その苦労が報われる日がついにやってきた。確かにコンピュータの画面では、15等星ぐらいの物体が微妙に位置を変 えているのが確認できたのだ。彼は高ぶる気持ちを抑え、再度その辺りに位置するであろう小惑星、彗星、さらには人工衛星のデータを掘り返してみた。すでに フィルムの傷でないことは確認ずみである。何度確認を重ねただろう、すでにそんな回数は彼にとってどうでも良いこととなっていた。彼の見つけた移動天体 は、それまで報告された小惑星、彗星のどれでも無かったのだ。ビンゴ!ついに見つけた!!彼はその天体に“ツィンメルマン彗星”と名を付け、大声でその発 見を喜び、喜びの踊りを踊りまくった。そんな真夜中の突然の騒動は、彼の両親が目を覚ましてくるまで続けられた。
 それからの彼の行動は素早かった。すぐに必要なデータをまとめると、ロシア国立天文台に彗星発見の報せを行ったのだ。こう言ったことは一刻を争う。この 日が来ることを予想して準備されていた書類が役に立ち、彼は脅威的な速度で報告書をまとめ上げた。未だ彼が見つけた彗星発見の報せは出ていないが、早いも の勝ちのこの世界は、ほんの一瞬の差で自分の名前が2番目以降になることもあるのだ。彼はまんじりともしないで、国立天文台からの報せを待った。彼らの検 証で、そこに彗星が確認できなければすべては水の泡に変わる。焦る気持ちからツィンメルマンは眠りにつくこともできず、まんじりともせずベッドの中で吉報 を待ち続けた。そして彼の望んで止まなかった報せは、まだ日の出ない朝の5時に彼の元に届けられた。
 一刻を争った彼の判断は適切だった。国立天文台が、彼の発見を確認し、グリニッジに登録した直後、イタリアの天文台からも同様の登録があったのだ。お互 いの発見時刻をつき合わせてみても、そこに一時間と差は無かった。まさにタッチの差、そのほんのわずかな差で、彼はその彗星の第一発見者として天文史に名 前を残すことになった。
  新たな彗星は、発見者の名前を取って“ツインメルマン=ビットリオ彗星”と命名された。ただ世の習わしで、第二発見者のビットリオ氏の名前は省略され ることが多かった。
 久しぶりの新彗星発見の報に、世界の天体観測者はこぞってツインメルマン=ビットリオ彗星の観測を始めた。だがそこから得られた観測結果は、彼らの間に 新たな悩みの種を植え付けた。
 初期の観測では、ツィンメルマン=ビットリオ彗星は、太陽の周りを1500年周期で周回する彗星であると推定されていた。しかしその公転周期も、観測を 続けるにつれ、どんどん変更されていった。しまいには、周期40億年というとんでもない値まで持ちだされた。しかしそれでもツィンメルマン=ビットリオ彗 星の軌道を説明することが出来なかった。本当に彗星なのか?未知の性質を持つ彗星は、普通の望遠鏡では捕らえられない遠距離に有りながら、多くの人達の話 題に上るようになっていた。
 更に観測は続けられ、その彗星が普通の彗星のように塵や氷でできているのではなく、かなりの大質量を有していることまで判明した。そして決定的だったの は、大気圏外に設置されたハッブル望遠鏡の観測で、彗星が太陽を回る長楕円軌道を描いていないことが確認された事だった。そして同時に質量も計算され、地 球の100分の1程度の大質量有していることが判明した。
 この瞬間、ツィンメルマンは数ある彗星の一つの発見者としてでなく、観測史上初の太陽系外天体“遊星”の第一発見者として名を歴史に記すこととなった。 大学に通い詰めた彼のエピソードもマスコミに紹介され、ツィンメルマンは一躍時の人となった。突然の大騒ぎは彼の両親を巻き込み、天才少年の両親として二 人は世界のマスコミに取材を受ける立場になった。

 時を同じくして、日本では一人の少年が絶望の淵にいた。信じていたものに裏切られた彼は、途方に暮れて芦の湖のほとりに立っていた。少年の顔には 青あざが浮かび、着ているものは薄手のTシャツ一枚だけだった。絶望を顔に浮かべた彼は、後ろを振り返ること無くまっすぐと湖の中へと足を進めた。その足 どりは頼りなかったが、そこには一切の迷いは存在しなかった。その少年の姿は、すぐに湖を包む闇の中に飲み込まれていった。
 少年の失踪はすぐ人に知られることとなった。しかし、必死の捜索にも、彼の手がかりは見つからず。唯一、湖岸で彼の靴が見つけられただけだった。
 少年は、人々の心に大きな傷を残して消えていった。とりわけ一人の少女に付けた傷は、誰も癒すことの出来ない大きな物であった。



 そして、時は流れた……






続く

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