イチゴイチエ 第5話


静かな教室、少年は幻覚を見る

 

 

 

 

 

「まだあげ初めし前髪の、林檎のもとに見えしとき、前に挿したる……」

 教室に、少女が教科書の詩を朗読する声が響いていた。正午を少し過ぎた、穏やかな日差しが窓から射し込む4時間目の授業中のことだ。
 第2新東京市はきょうも好天が続いている。
 だが、教室の窓際、一番後ろの席に座るシンジの心はきょうも暗雲が立ちこめていたようだ。彼は変わらない暗く沈んだ表情のまま、教科書にも手元にある端末も見ることなく、ただ窓の外だけを虚ろな、光のない視線で見つめているだけだった。

(……くっ)

 ときおり、鋭い痛みが胃に突き刺さる。ここ最近では感じたことのないほど強烈な痛みだった。思わず呻き声を上げてしまいそうになるのを、シンジは歯を食いしばり、必死の思いでそれに耐えた。
 自宅のトイレで激しく吐いたのは今朝の4時過ぎ。結局、あれから眠ることは出来なかった。
 悶々とした夜を過ごした。
 シンジの目の下からはクマは消えない。まるで一生残る入れ墨のように、くっきりと刻み込まれている。激しい疲労の色もまた、その端正な顔に現れていた。
 彼の衰弱は、相当の段階まで進んでいた。

(やっぱり、休んだほうがよかったかな)

 シンジはそうも考える。彼を監督すべき保護者はいないのだ。学校に行こうが休もうが、それはシンジの自由である。そしてこれだけ精神と身体にダメージを受けていては、休み、医者に診てもらったほうがベストなのは当然だ。
 なのにシンジはそうしなかった。まるで自分の身体を自分で痛めつけるかのように、睡眠も食事もとれていない状態でシンジは学校に向かった。動かない足を無理に動かすようにして。
 それは勉強をしたいという気持ちよりも、もう自分などどうなってもいい、そんな自暴自棄めいた思いによるものだった。

「はい、そこまで」

 担任の女教師が声をかけ、少女は座った。
 着席したのを見届けてから、教師はクラスを見回し解説を始める。

「はい、まずこの1段落目の意味ですね。最初の文章、『まだあげ初めし』から見て行きましょう。ここでは……」

 教師の声が、教室一杯に響きわたっていた。
 教室にいるのは40人ほどの生徒。第3新東京市とは違い、疎開する必要もないので生徒の数は総じて多い。空席も見当たらない。みんな教師の話にちゃんと耳を傾けているが、シンジは聞いていなかった。
 と言っても、シンジに勉強する気がないわけではない。ただ、もう何も頭に入らないのだ。
 シンジの頭を占めているのは、トウジの最期。彼が乗った参号機を陵辱した錯覚と、彼の死を断定したオペレーターの台詞。そしてもはや頭からこびりついて離れないようになったヒカリの顔。感情が全く現れない、氷の仮面のような冷ややかな表情だった。

(ごめん、トウジ……)

 ふいに、親友に対する罪悪感がシンジの胸に沸き起こる。

”トウジが死んだのは父のせいだ。自分は悪くないんだ”

 何度も自分にそう言い聞かせて来たが、その行為こそがシンジがトウジに対して罪悪感を抱いている証拠だった。
 使徒に冒されたエヴァ参号機に対し、シンジは何も出来なかった。
 彼が死ぬのを、なすすべなく見守っているだけだった。

「……さて、次の段落を読んでもらいましょうか。えっと……」

 言いながら、教師はクラスをぐるりと見回し、ぼんやりとした様子で窓の外に目を向けているシンジに気付いた。
 教師はわずかに眉をしかめ、シンジの名前を呼ぶ。

「碇くん!」

 自分の名前が呼ばれているのに気付いたのか、シンジはハッと視線を前に向ける。
 教師は腰に手を当て、シンジを見た。

「碇くん?」
「あ、はい……」

 もう一度呼ぶと、シンジは返事をした。いわゆる蚊の鳴くような、弱々しい声だった。

「聞いていましたか、碇くん? ちゃんと授業に集中なさい」
「すみません……」
「いいですか? 次の段落から読んでください」
「はい……」

 言いながら、シンジは立ち上がる。
 立ち上がったとたん、身体がふらついた。とっさにシンジは机に手をかけ、ともすれば崩れ落ちてしまう身体を必死に支えた。

「はい、どうぞ。読んでください?」

 だが、教師の言う「次の段落」がどこか分からない。仕方なく、シンジは黙り込んで立ち尽くすしかない。授業など聞いていなかったのだから当然と言えば当然である。
 教師は呆れたような表情を見せるが、すぐには何も言わなかった。授業を聞いていなかったシンジをちょっと懲らしめてやろう、そんな気があったのかもしれない。
 クラスメイトたちも一向に言葉を出さないシンジを、「どうしたんだ?」というふうに見つめる。
 図らずも教室全員の視線が、シンジに集中していた。

「あ、あの……」

 そこまでシンジが言ったときだ。
 シンジの耳に、唐突に女生徒のヒソヒソ声が飛び込んで来た。

 

『ねぇ、聞いた? あの男の子ってさあ、友だち、殺しちゃったんだって!』
『ウソ!?』
『本当だって! ひどいことすると思わない!?』
『そんなひどいことするヤツ、本当にこのクラスにいるの?』

 

(……え?)

 シンジは慌てたように服の袖で目をこすって、辺りを見回した。
 確かにシンジは女生徒たちの声を聞いたはずだった。
 だが、クラスメイトたちは個々にシンジを見ているかまたは興味なさげに自らの端末に目を落としているだけ。少なくともシンジからは、教師の目を盗んで会話する女生徒の姿など見られない。

(そんな、絶対に誰かが言ったと思ったのに……?)

「碇くん、どうしましたか?」

 意地悪く、女教師は言う。シンジから謝罪の言葉を引き出したかったのかもしれなかった。すみません、聞いていませんでした、と言わせたかったのだろうか。だが、シンジがそれを言うよりも早く、また、クラスメイトたちが殺した声で囁き合うのをシンジは聞いた。

 

『あんなヤツ、こんなクラスに必要か?』
『冗談!』
『だよな、さっさとこのクラスから出て行きゃいいのによ!』
『俺たちも殺されちまうかもしれないしな!』

 

 シンジは顔面を蒼白にして、再び見回す。

(な、何だよ……、みんな僕を責めるの!?)

 怯えの色も、その顔一杯に浮かんでいた。
 それでもやはり、会話している男子生徒の姿などない。

(だ、誰なんだよ!? 誰が……!?)

 第壱中学校とは違い、シンジがエヴァンゲリオンのパイロットだったことは誰にも知られていない。
 この時期に転入して来るのは別段珍しくなかったし、シンジも自分のことを他人に話そうとはしなかった。彼の周りをクラスメイトが囲んだのは転校した日とその翌日だけで、得体の知れない暗さを漂わせているシンジに話しかけようとする生徒は次第にいなくなった。
 従ってシンジが耳にしたうわさ話など、ここで起こるはずがないのである。
 なのに。
 シンジの耳には絶え間なく、冷たい声で囁き合う生徒たちの声が聞こえて来る。

(や、やめてよ。お願いだから!)

 シンジの前にいた席の男の子が、振り向いた。

 

『最低だよ、オマエは』

 

 彼の口が動いて、シンジにそんな言葉を叩きつけた。

「ち、違う……」

 うろたえたように言うシンジの隣の席の女の子が、冷たい視線でシンジを見据え、ポツリと言う。

 

『人殺し』

 

「だから違うんだ……!」

 実を言うと、それはシンジの錯覚だった。強迫観念が、シンジにそんな幻覚を見せていた。クラスメイトの視線に晒されたシンジが、勝手にそう言われていると思い込んだに過ぎないのだった。
 だからシンジは気付いていなかったが、生徒たちは誰1人として囁き合ってもいなければ、冷たい視線を向けてもいない。
 だが、パニックになったシンジにはそんなことは気付かない。
 シンジを見るクラスメイトたちの視線。そこには憎しみ、侮蔑、嫌悪、そんな感情に満ちている、そんな錯覚に彼は陥っていた。


『人間のクズだよ、お前は!』

 前の席の男の子が吐き捨てる。


『クラスから出て行って!』

 隣の席の女の子が、心から軽蔑したような表情で言う。

 

『もう二度と学校に来ないで!』

 さっきまで教科書を朗読していた女の子が、激しい怒りの表情を見せて叫ぶ。

 

「許して……、僕をもう許して……」

 震えた声を紡ぎだしながら、シンジは担任の教師を見やった。彼女だったら、自分を助けてくれるかもしれない、そんな思いで。だが、彼の予想は外れた。


『死になさい、碇くん。あなたがこの世界にいていい理由はどこにもないのよ』

 

(違う、僕じゃない、トウジを殺したのは僕じゃないって言ってるじゃないか! やめてよ、やめてよみんな。そんな目で僕を見るのはやめてよ!)

 シンジは顔を真っ青にしながら、その場で震え出す。
 もうこれ以上クラスメイトたちの冷たい視線と罵倒に晒されるのはたくさんだと、固く目を閉じてうつむいた。

(碇くん、どうして鈴原を殺しちゃったの?)

 しかしその瞬間、ヒカリの無表情な顔が頭に浮かんで、再びシンジはハッと目を見開いた。

(委員長まで!?)

 もうどうしていいのか分からなかった。
 目を開けばクラスメイトに、担任教師に責められ、目を閉じればヒカリに責められる。
 もはやシンジに出来るのは、ただ同じ言葉を繰り返すだけだった。

「許して、僕を許してよ……!」

 そうして最後に、シンジは声を限りに悲鳴を上げるのだった。

「うわああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「どうしたの、碇くん!?」

 さすがにシンジの異様な状態に気付いたのか、教師が気遣うように呼びかける。だがシンジはもう教師の声など耳に入らないとばかりに両手で頭を抱え、激しく左右に振るだけだ。

「……うげぇっ」

 そのときだった。鋭い胃の痛みとともに激しい嘔吐感がシンジを襲ったのは。
 思わずシンジはその場にうずくまっていた。

「うっ、うっ、うううっ、うええっ……」

 自分の机にもたれかかり、激しく嘔吐しようとするシンジだったが、もはや出るものと言えば声だけ。
 胃液すら出なかった。

「だ、大丈夫!? 誰か、彼を保健室に連れて行ってあげて!」
「先生、私が行きます!」

 教師の呼びかけに真っ先に名乗りを上げたのは、保健委員の女の子だった。教師がうなずいてみせるとその女の子は慌てたようにシンジに駆け寄る。

「大丈夫、碇くん!?」

 ショートカットのその女の子は、ヒカリには全く似ていなかった。なのに、声をかけられてヨロヨロと顔を上げたシンジが見たのは、お下げ髪の、少しそばかすが残った少女の冷たい表情だった。

 

『いい気味よ、碇くん。もっともっと苦しめばいいのよ。鈴原を殺した碇くんにはそんな姿がお似合いなんだから』

 

「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」

 再び悲鳴を上げながら、シンジはその女の子から後ずさろうとする。
 ペタンとその場に座りこんだまま、腰が抜けたような格好になりながらも両手と両脚で必死にその女の子から逃げようとする。

「来ないで、来ないでよ委員長。もう許して、お願いだから許して!」
「どうしたの碇くん? 委員長って誰のこと!?」
「ごめん、ごめん委員長。もう許して、僕を責めないで!」

 それだけ言うと、シンジは何とか立ち上がり、教室を飛び出して行った。
 そんな彼を、担任教師も、保健委員の女の子も、そしてクラスメイトたちもわけが分からない頭を抱えたまま見送るだけだった。

 

 

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 どこをどう逃げまどったのか、気が付いたらシンジは校舎の屋上まで来ていた。
 ちょうど、昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴り響いていた。

 

 キ〜ン、コ〜ン、カ〜ン、コ〜ン……。


 どの学校でもチャイムの音は変わらない。
 給水塔の近くまで来てようやくシンジは足を止め、コンクリートの壁にもたれかかっていた。幾分落ち着いてはいたが、その顔は真っ青に青ざめたまま。両脚の震えは止まるどころかますますその勢いを増し、全身を激しい恐怖が襲っていた。

「どうしたらいいんだよ……、どうしたら……」

 既にシンジには、幻覚が幻覚と分からなくなっている。
 神経衰弱。
 もう眠っているだけでなく、目覚めていてもトウジを殺してしまったという呪縛からは逃れられないのか。
 そして、ヒカリを初めとする人々に未来永劫、責められなければいけないのか。
 そう考えたとたん、凍り付くような寒気がシンジに押し寄せた。

「そんなのはイヤだ……、イヤだよ」

 ふいにシンジは、ズボンのポケットに手を入れ、携帯電話を取り出した。
 もう限界だ。
 ミサトに助けてもらおう、そうシンジは思った。
 プライドも、恥も外聞もかなぐり捨て、助けを乞おう。
 きっとミサトなら助けてくれる。
 この状態から救い出してくれる。
 俄然、活気づいたような手つきになって携帯電話に登録されている番号を検索しながら、ふと、シンジはそれに気付いた。
 何故、そこに残っているのか分からなかった。
 以前、ミサトから渡された携帯電話ではないのに。なのにそこには、洞木ヒカリの携帯番号も登録されてあった。

「委員長……」

 全ての元凶とも言える存在にシンジは気付く。
 彼女が夢に現れなければ、これほどまでにシンジが憔悴し、衰弱する理由はないのである。
 悪夢から目覚めたときにはいつも彼女に対して許しを乞うていたが、いくら目の前にいない少女に言っても詮のないことだ。
 もし彼女が一言、「許す」と言ってくれれば自分は楽になれるんじゃないだろうか。
 かつて何度か聞いた少女の優しい声を耳に出来れば、自分は落ち着くことが出来るんじゃないだろうか。
 この苦しみから逃れられるんじゃないだろうか。
 思案するのは一瞬だった。
 シンジはミサトではなく、ヒカリの携帯電話の番号を押していた。


 プルルル、プルルルル……。

 

 ほんの数秒の呼び出し音が、シンジにとってはまるで数分にも、数時間にも思えた。

『もしもし?』

 数日ぶりに聞くヒカリの声が、シンジの耳に届いた。

「……」

 そのとたん、トウジを殺してしまったことに始まり、誰彼となく責められるようになるに至ったこれまでのことがシンジの胸に押し寄せて来て、思わず黙り込む。

『もしもし!?』

 苛立ったようなヒカリの声。
 シンジはごくん、と唾を飲み込むと、ゆっくりと口を開いた。

「委員長……」
『……え?』

 ヒカリが息を呑む様子が、シンジに伝わる。

「ぼ……」

 だが、それは唐突にシンジに訪れた。
 僕、という言葉を出そうとしたとき、それまで感じたこともないほど強烈な胃痛と吐き気が胸に押し寄せる。とっさに携帯電話を切るのと、その場で嘔吐するのが同時だった。

「うげぅぇぇぇぇ……!」

 シンジの足もとのコンクリートが、赤く染まった。

「うぇっ、うげっ、うげぇぇっ」

 両手をついて、前屈みになって、シンジは激しく嘔吐した。手から放れた携帯電話がカラカラと音を立てながら転がって行った。
 飛沫が飛んで、シンジの白いシャツを赤いシミが点々と汚す。
 シンジが吐いたのは紛れもなく血だった。何度も吐いたせいで喉の血管が切れたのか、それとも本当に胃から出血したのか分からなかったが。
 まるで何か刃物で切り裂かれたような痛みが、シンジの腹部を襲う。たまらず、シンジは両手で自分の身体を支えることも出来ずにその場に突っ伏していた。
 シンジの顔とコンクリートの地面が望まない逢瀬を果たす寸前、転がったままの携帯電話が目に入る。

「委員長……」

 口の端から血を滴らせながら呻くように呟いたその瞬間、シンジの意識は途絶えた。
 永遠の闇に自分の身体が落ちて行くのを、シンジは感じていた。

 

 

 

 

 

続く


2002/01/06 by FUJIWARA

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