Written by かつ丸
この部屋に来るのは何週間ぶりだろうか。
以前にきた時よりも少しは片付いている。やはり他人と暮らす以上、ミサトもあまり野放図にはしていられないということか。
それに彼女の新しい同居人は、他人のだらしなさを許さないところがあるように見える。きっとさんざん糾弾され、ミサトがしぶしぶ片付けたというところだろう。
出てくる料理がレトルトなのは女性の二人暮しとしては落第なのかもしれないが、それでもミサトの手作りよりはましだ、少なくともこれは食物ではある。
「どう? 久しぶりに他人と暮らしてみて」
「…あまり簡単じゃないわね。覚悟してなかったわけじゃないんだけど」
「女同士のほうが、難しいわよ。…特にあの年頃はね」
時刻は午後7時、たまの休みだからとミサトからの夕食の誘いを受け、リツコはこの家に来ていた。
ミサトの同居人であるアスカはまだ帰っていない、聞けば加持と出かけているそうだ。昼間、自慢げにそう言って出て行ったとミサトは顔をしかめている。
ミサト自身はさきほどまで眠っていたようだ、タンクトップに短パンといういかにもラフなスタイルでリツコを出迎えた。
アスカがいればこの間の戦いの蒸し返しがあるだろう、だから差し向かいで飲むほうが気晴らしにはなる、ミサトもそう思っているのかもしれない。
それに、彼女の話題にしたい相手は、おそらくここにいない少女のことのはずだ。
「私が彼女の年頃って、ちょうどセカンドインパクトの頃なのよね。あんなにキャンキャン言ってなかったと思うけど」
「……あなたは特別でしょ」
「それはそうね、一緒にしちゃ可哀相か」
タハハと笑うミサトには、何のこだわりもないように見える。あの災いの発端だった南極基地の実験施設、その唯一の生き残り。その後2年以上心を閉ざしていたはずだが、外見からは想像もできない。
ミサトの出自を知る者は、ネルフでもごく一部だ。
セカンドインパクトで家族や恋人を失った多くの者たちがミサトのことを知れば、おそらくなぶり殺しにするだろう。
たとえ彼女に、なんの罪も無いとしても。
人類を滅亡のふちに追い込んだ災危、それを起こした元凶の一人娘。
今のシンジの気持ちがわかるのは、もしかしたらミサトだけなのかもしれない。
「……ねえ、ミサト」
「なに?」
「…あなたは、どうしてネルフに入ったの」
「なあに? 突然。 それにそれって昔も訊かなかったっけ?」
「そうだったかしら」
確かに、大学を出てミサトがネルフの前身であるゲヒルンに入ると聞いた時、同じことを訊ねたような気がする。彼女と国際公務員という固い肩書きがどうしても結びつかなかったのだ。母ナオコがいたことから、最新の科学技術集団というイメージがリツコにはあった、だから自分自身が入ることについてはなんの違和感もなかったのだが。
「使徒を倒すため、よ。決まってるじゃない」
そう、8年前に同じことをリツコが聞いたときも、ミサトはそう言って微笑んでいた。
そして今の彼女の表情には、あの時には無いものがある。
「…だから嬉しかったわ。ホントに倒すことができて」
「でも、これからも続くのよ」
「なら倒しつづけるだけだわ、私が生きている限りね」
ミサトの瞳が光った。
獲物を求める野生動物のように凄みを持った凶悪な光が、彼女の目には宿っていた。
「…何のために、使徒を倒すの?」
「……何言ってるの、サードインパクトを起こさないため、でしょ」
呆れたようにミサトが言う。何をいまさらと。
確かにそうだ。サードインパクトの阻止を旗印にネルフは創られ、そしてその目的ゆえにこの国でのあらゆる超法規、非合法な行動が認められている。
「だから……どうして、あなたがそれをしないといけないと思うのかってことよ」
「…私が?」
ミサトは人差し指を自分自身の顔に向け、何度か瞬きをした。
しばらく考えた後、ようやくリツコの言葉に得心したのか、かすかな微笑みを見せる。
「父さんの仇討ち、そう言わせたいんでしょ?」
「違うの?」
「…違わないんだけどね」
「それって不毛だと思わない? あなたのお父さんが喜ぶかしら?」
セカンドインパクトを起こしたのは第一使徒アダムだ、確かにミサトの父を直接殺したのはそうだろう。
けれどセカンドインパクトで死んだ数億の人々は、みな同じだと言えないだろうか。
ミサトだけにその権利があるわけでもない。
しかしリツコの言葉は大きなお世話だったろう。ミサトの父親と面識があるわけでもないのに。
逆鱗に触れてもおかしくない、言ってしまってからそう思ったが、ミサトい怒った様子はなかった。
聞こえなかったわけではない、いつになく静かなまなざしでこちらを見ている。
学生時代から、そしてネルフにはいってからも、一度も見たこともないようなまなざしで。
やがてミサトは、そっとつぶやいた。リツコの目を見たまま。
「仇討ち、使徒への復讐、でも本当は……贖罪、なのかもしれないわね。私がしたいと思っていることは」
「……誰もあなたを責めはしないわ。少しでも判断力がある人ならね」
「確かに、私は子供だったし、何も知らなかった。……でも、私があそこにいたこと、手を伸ばせば止められる場所にいたこと、その事実は消せないのよ」
リツコから視線を外し、ミサトは天井を見上げた。
彼女には別の何かが見えているのかもしれない。
「私以外のあそこにいた人たちは、みんな自分の命で償いをすませたわ。…今生きている人たちが許してくれても、私がここにいる限り、罪は消えないのよ。私が生きている限り」
「……ミサト…」
「起こってしまったことはどうしようもないわ、過去に戻ることはできないんだから。…だから私は、今、私にできることを全力でするの。…いいえ、私がしなきゃいけないって、そう思うの」
そのためなら子供たちを道具にすることも、自らの手を血で染めることも、ミサトは受け入れるのだろう。
それでもリツコは知っている。素顔のミサトは心の弱い、傷つきやすい女性だということを。
シンジやアスカを戦わせることに忸怩たる思いをもって、それでもそれに耐えていることを。
セカンドインパクトの後見た地獄が、彼女に修羅の道を歩ませようしているというのだろうか。
「ねえ、ミサト、もし、もしもよ…過去に戻れたらどうする? 今の記憶と心を持って南極のあの場所のあなたに戻ることができたとしたら…」
いつのまにかそう訊ねていた。
その時、リツコの声は少し震えていたにちがいない。普段ならぜったいしないような非現実的な質問だ。
しばしきょとんとした顔をした後、ミサトはうつむいて黙り込んでしまった。
もしかしたら呆れているのかもしれない。真面目な話をしているのに茶化されたと、そう思っているのかもしれない。
「…ごめんなさい、あまり意味はないわね」
「……もし、あの時に戻れたら、か。昔はずっとそう願っていたような気がするわ。言葉が出てくるまでの、あの2年の間はずっと…」
うつむいたままつそうつぶやいたミサトが、ゆっくりと顔を上げる。そして彼女は右手に持ったままだった缶ビールに口をつけ少しだけ飲んだ。乾いたくちびるを湿らすように。
リツコはただ彼女を見ていた。虚空を見つめるミサトの、その瞳の中に潜む光を。
「……ずっと考えていたわ。そして答えも決まっていた」
「…どうするの?」
「あの場所と、あの場所にいた人たちを全員、この世から消すって。自分も含めてね」
「ただいま〜」
沈黙が支配していた空気を壊すように、玄関口から声がした。
ドタドタと足音が響く。アスカだ。
リビングルームに入って来た彼女は、かなり気合の入った服装をしている。少なくともアスカのほうはデートのつもりだったようだ。買い物に行ったのか、ロゴの入った大きな袋を下げている。
「おかえり、アスカ。食事は?」
「おじゃましてるわ」
「すませてきたからいいわ。いらっしゃい、リツコ」
玄関に靴があったことから予想していたのだろうか、リツコの顔を見てもアスカは意外そうなそぶりは見せなかった。そのまま自室に入っていく、着替えるためだろう。
挨拶の時にこちらを見ようとしなかったのは、やはり含むところがあるのかもしれない。
「…加持くんもさすがに中学生には手は出さなかったみたいね」
「あたりまえじゃない、それくらいの節度はあるわよ」
先ほどまでの会話など忘れたように、ビールをがぶがぶと飲みながらミサトが答える。
だが彼女が今日リツコを呼んだのは、アスカの帰りがもっと遅かった時のことを考えてなのかもしれない。もしそうなったならば疑心暗鬼を抑えることができないと、無意識に思った故の。
ドアが開き、アスカが出てきた。普通の部屋着姿だ。
「たまの休みに女同士でビール飲んでるの? 冴えないわねえ、ミサトも」
「うっさいわよ。それになんで私だけ名指しなのよ」
「だってリツコには恋人がいるんでしょ? アタシも今日加持さんから聞いて驚いたんだけど」
その言葉を聞いた瞬間、ミサトの眉毛がつりあがった。
鬼のような形相でリツコを見ている。
「だ、誰よそれ、初耳よ、そんなの、この裏切り者!!」
「…知らないわよ。どうせ加持くんにからかわれたんじゃないの、アスカが」
「ねえ、アスカ、加持のバカはなんて言ってたの?」
ミサトの剣幕に驚いたのか、アスカは少し退いていた。
実際ただの軽口のつもりだったようだから。
「え、だから、今日食事の時にいろいろ話したのよ。学校の様子とか訊かれたから」
「…それと、リツコの恋人と何の関係があるわけ?」
「それでね、ファーストともサードとも同じクラスだけど、二人とも陰気でクラスから浮いてるから、なんか同じチルドレンだってみんなに言いにくい雰囲気で困るって相談したの」
「…別に言う必要なんかないじゃない」
ネルフ内部の事情は原則として機密事項だ。
アスカたちチルドレンに服務規程がそのまま適用されるわけではないが、それくらいの教育はドイツでされていなかったのだろうか。
けれどもアスカにはリツコの声は聞こえなかったようだ。
「それに二人とも同僚のアタシとも喋ろうとしないし、いじめのつもりかとも思ったわよ。でも、なんか変なのよ。ファーストはともかく、サードはあきらかにアタシのこと避けてるから、ネルフでも」
「シンジくんが? 別に私にだけってわけじゃなかったのね」
「そういえばミサトとも話さないわね、あいつ」
「…あの子は誰にでもそうなんじゃないの? マヤや青葉君たちとも話してるの見たことないわよ」
「……リツコは結構話してるじゃない。あの子しょっちゅう研究室にも出入りしてるし」
ミサトの言葉に、アスカがさもありなんといった様子で頷いた。
「やっぱり、これで裏がとれたわね」
「どういう意味?」
「サードはリツコのスズメなのよ」
「…なにそれ?」
「……カモメ、だったかしら」
それを言うならツバメだろうと突っ込みを入れたくなる気持ちを抑えながら、リツコは頭に加持の軽薄な笑顔を思い浮かべていた。
このあいだ彼をからかった仕返しということだろう。
「ヒバリ、でもないし。カンムリワシ?」
「…わけわかんないわよ、アスカ」
「…それより、どうだったの今日は。デートだったんでしょ。楽しめた?」
「え、うん、すっごく楽しかった」
「そりゃあよかったわねえ」
話をそらすと、二人ともあっさりとついてきた。
さほどシンジには興味がない証拠かもしれない。
「買い物に付き合ってもらったの、やっぱセンスいい人じゃないとね」
「そう、で、何を買ったの?」
「えへへ〜、水着。来週から修学旅行だから。沖縄でスキューバするのよ」
その言葉に、思わずリツコはミサトを見た。
案の定顔をしかめている。
「…あなた、まだ話してなかったの」
「うん、ちょっちタイミングがつかめなくて」
「呆れた、決めたのはあなたでしょうに」
「…どういうこと? 何かあるの?」
二人の様子に不穏なものを感じたのか、さきほどまでのはしゃいだ様子を消してアスカが問い掛けてきた。
ミサトの目が泳いでいる、確かにこれだけ楽しみにしているアスカには言いにくいだろう、
戦闘待機で修学旅行への参加は許可できない、とは。
エヴァがこの組織の中心である以上、一時的にでもこの都市からチルドレンがいなくなる事態は認められるものではない。使徒はいつどこからくるかわからないのだから。
けれどそう言って納得できるのは当事者ではない大人だけだろう。
時計を見る、ちょうどいい頃合だ。テーブルの食事もあらかた片付いている。
笑みを浮かべ、そそくさとリツコは立ち上がった。
「詳しいことはミサトから聞きなさい。…それじゃあ、私はそろそろ失礼するわ」
「ちょ、ちょっとリツコ」
「ちゃんと話すのよ」
「う、裏切り者〜」
「ねえ、どういうことよ、ミサト」
喧騒の残るマンションを出て、リツコは夜空を見上げた。すでにその顔に微笑みはない。
壱中の修学旅行、シンジから聞いた次の使徒との戦いの時は、もう目の前に来ていた。