Written by かつ丸
渚カヲル。
それがフィフスチルドレンの名前だった。
セカンドインパクトの日が誕生日という以外は不明という経歴と、銀に輝く髪と全てを見透かすような紅い瞳が写されたその写真から、彼がレイと同質の「造られた存在」であることは、リツコにとっては明白だった。
ゲンドウたちはどうだろうか。問いただしたわけではないからわからないが、その程度の洞察力は彼らも持っているだろう。
ミサトですら、疑問を持っているくらいなのだから。
量産されるエヴァのための量産型パイロット、簡単に言えばそういうイメージを持っているらしい。エヴァがそうであるように、技術さえあればここで造れるものは他の場所でも造られうる。
レイが造られたのだから、カヲルがそうであってもおかしくはない、ミサトがそう考えていることは彼女のくちぶりでわかった。
事実は、その先を行っている。
リツコは、知っている。
シンジは言っていた。最後の使徒のことを、「彼」と、そう呼んでいた。
つまり、カヲルが、フィフスチルドレンこそが、「彼」なのだ。
使徒を委員会が、いや、ゼーレが送り込んでくる。彼らもまた切り札を持っていたということだろう。
カヲルがネルフに着くのは明日になるらしい。
その時が、全てが大きく動く汐となるのだろう。
シンジの知っていた「未来」で、カヲルがどんな行動をとっていたのかリツコにはわからない。
「彼」が死を望み、そしてシンジが殺したと、それだけしか聞いていない。
人間の姿から異形へと変化をするのか、違うのか、それすらも。
かつてシンジが行なってきた、使徒を倒すということ。今のシンジに同じことができるのか、リツコにも予想はつかない。
繰り返される戦闘訓練を見ていても、彼のスキルが上がっているようには感じられないし、覚悟ややる気が生まれた様子もないからだ。
おそらく、使えない可能性のほうが高いように思える。
ともあれ事態が動き出さなければ、全ては仮定の話でしかない。
ミサトにしごかれているシンジを、リツコが責め立てることもない。露骨な接触はさけたほうがいい、ここに来るまではそう考えていた。
ネルフ本部内、格闘訓練場。
今までリツコにはほとんど縁のなかった場所だ。
ついさきほどまで、ミサトの指導でチルドレンたちの特訓が行なわれていた。もっとも、アスカは来ていないので、参加者はシンジとレイの二人だけだった。
あとは看護婦などのサポート要員が数名のみ。数十畳の部屋にしては贅沢な使われ方だ。
ナイフをもっての立ち振る舞いや素手での戦い方、ミサトが師範となって組み手を中心に数時間行なわれていたが、ひととおり終わり、今は休憩に入っている。
ほとんど汗もかいていない様子のミサトは、タオルを片手にスポーツドリンクを飲んでいるが、その表情は厳しい。
まったくの素人であるリツコの目から見ても、及第点など無理だとわかる内容だったのだ、それも無理はないと思う。
訓練回数は多いはずだが、レイの身体能力は高くはない。冷静さから射撃の成績はいいようだが、人を相手に闘うのは向いていないようだ。
そしてシンジの動きに至っては、ぎこちなさと腰の引け具合だけが際立っている。覇気とかやる気とか、そういったものがまったく感じられない。
なんどもミサトの罵声が飛んでいたが、シンジはそのたびに萎縮し腕を縮こめていた。確かにミサトが鬼のようにでも見えていたのかもしれないが、こんな調子で使徒と戦えるとは、ミサトも思えなかったのだろう。
彼も気にしていないわけではあるまい。少しは落ち込んでいるようだ。
顔を隠すようにタオルを頭からかぶり、床にへたり込んで俯いている。
彼にとって過度な運動をしたせいだろう、大きく肩が上下に動き、荒い息がここまで聞こえてくる気がした。
シンジを見ているリツコに気づいたのか、ミサトが近づいて来る。
「珍しいじゃない。ずっと見てたの?」
「ええ。あなたも苦労だわね」
「ホントに。まいったわ。眩暈がしそうよ」
冗談めかして言っていても、ミサトの目は笑っていない。
やや大きめな声なのは、シンジに聞かせているつもりもあるのだろう。
小さくため息をつくと、今度はトーンを下げて話し出した。
「…彼、もともとこういうのは得意じゃなかったんだけどね。記憶をなくしてからこっち、この手の訓練はほとんどしてなかったせいもあるのかもしれないけど、でも、ちょっと度を越してるわ。最初の時でももっとちゃんとしてたもの」
「焦ってもしかたがないでしょう。…だいたい、エヴァの身体能力と、パイロットの能力が単純に連動するわけじゃないわ」
「それはわかってるわよ。シンジくんと…ああなる前の彼とも、組み手ぐらいしたことはあるから。いくらエヴァに乗って鬼神の如く戦えても、生身のあの子はそうじゃなかったわ」
「まさか、本気をだしたのあなた? 子ども相手に」
「本気じゃないわよ。 それは、私にとって殺すってことと同義だもの」
「極論で逃げないで、ミサト……相手の技量とかけ離れた訓練はしごきですらないわ。プロの軍人が中学生にすることじゃないわね」
「あの子がただの中学生だなんて、誰も思って無かったわよ」
そう言って、口元を歪ませる。
ミサトは確かにシンジを快くは思っていなかった。
だから、鬱憤を晴らそうとしたこともあったのかもしれない。
それでも、彼女の立場からして、褒められることではない。
「そんなに睨まないでよ」
リツコから視線を逸らして、ミサトが言う。
「…でもね、何度か相手をして、そのたびに叩きのめしたんだけど。不思議ね、今考えればあの子は、そのことで私を憎んだりはしてなかったわ」
「どういうこと?」
「気づかなかった? さっきシンジくんと組んだ時よくわかったもの、この子はほとんど抵抗しないけど、こんなことをやらされることを嫌がっている、不快に感じている、強要する私を、よく思ってはいないって。だからたまに逆切れしたような攻めかたをしてくる、型も何もなっちゃいないんだけどね」
シンジに目を向ける。あいかわらず俯いて、座り込んだたままだ。
こちらの会話は聞こえてはいまい。
「前はそんなことはなかったわ。決して、切れるなんてことはなかった。私やアスカにどれだけ叩きのめされても、怒りも、憎しみも向けてはこなかった。何故だか知らないけれど。……でもね、やっぱり、今のシンジくんのほうが普通の反応だと思う」
「恨まれて当然ってこと?」
「そう、理不尽だもの、自分でやっておいて言うのもおかしいけど。でも、やっぱり今のあの子と、以前とは、違いすぎる。リツコもわかってるんでしょう? 性格だけじゃなくて、態度、そう、私たちに対する接しかたがあまりにも違うってこと」
「…あなたの気持ちが、以前と今じゃ違うからじゃないかしら。シンジくんは白紙だったんだから、自然と変わってきてるんじゃなくて」
「そうやって誤魔化す気? 逃げてるのはあんたのほうじゃない。以前のあの子が私を避けてたことが説明できない以上、他に理由があるはずなのよ、絶対。…ただの記憶喪失なんかじゃ、ありえない」
今度は、ミサトがリツコを睨んできた。
けれど、リツコは視線を逸らしたりはしない。むしろ微笑みすら浮かべて、ミサトの言葉を聞いていた。
ミサトの瞳が、さらに鋭さを増す。
「…レイのことを知って、私が怖れて手を引くと思ったら大きな間違いよ。あんたや司令が、そして委員会が何を企んでいるのか、絶対につきとめて見せるわ」
「好きに、すればいいわ」
冷たい口調で応えた。
もしミサトが、シンジの変化もリツコたちの謀略の一部だと考えているとしたら、とんだ筋違いだと思う。
そもそも訓練を名目にシンジに意趣返ししていたという告白をしたその口で、他人の何を糾弾しようと言うのだろう。
好きにすればいい。もとより、リツコもミサトの思惑に関わりあっているゆとりなどない。
お互いの間にできた見えない壁の向こうで、白けたようにミサトが言う。
「…それで、何しにきたの、リツコ」
「もちろん、シンジくんを見に来たのよ。今のあの子がどういう状況なのか、ちゃんと確認するために。……おおむね、予想通りだったわね」
「確認してどうするのよ。もし慰めるつもりなら、そうしてあげたら?」
挑発するように、ミサトが顎をしゃくった、その先にいる少年は、ようやく息がととのったのか、静かに座っている。顔は伏せたままなので表情はわからない、けれど、呆けたような、空ろな瞳をしているのが想像できた。
戦う意欲や目的など、彼にはないのだ。
ただ言われたままにここにいるだけのそんなシンジに、特訓などしても効果はないのかもしれない。
かける言葉は、思いつかなかった。話し掛ける気持ちすら湧かなかった。
今さらだが、リツコはやはり彼をシンジとは認めていないのだ。ミサトや他の職員よりも、その気持ちは強い、だから拒否している。
その時、別の視線を感じた。
リツコに向けられたものではない。シンジを見つめる、リツコとは別の誰か。
ずっとそこにいたのだろうか、今まで気づかなかった。
レイが、トレーニングスーツに身を固めた彼女が、格闘場の隅に佇み、なにも言わず、凪のように静かに、ただじっとシンジを見ていた。
リツコやミサトやこの部屋にいる他の人たちのことなど、まるで気にはしていないふうだ。
けれど、レイの瞳から、熱情とか、せっぱつまった想いとか、そういったものは感じられない。
観察や分析、そういったほうがふさわしい感情のこもらない視線。
だからだろう。レイのことをシンジは気づいてはいないようだ。
「…どうしたの?」
黙ってしまったリツコに、不審げにミサトが問い掛ける。
直接は答えずに、目の動きでレイの方角を示した。
「ああ、あの子はずっとああよ。…アスカとは対照的ね」
「どういうこと?」
「あんた、気づいてたんじゃないの? 以前もその傾向はあったけど、シンジくんが記憶を無くしてから、特に興味を持ったみたいね、シンクロテストの前後とか控え室にいる時も、今のような感じのことがよくあるわ」
あなたは実験の準備をしているから知らなかったかもね、と、そういうミサトの目は、どこかリツコを見透かしているようだ。
「そう…それで、アスカは?」
「あの子は、だから逆よ。今のシンジくんには関わりたくないみたい。ずっとライバル意識持ってたのに、ほとんど話題にもしなくなったし」
「ふうん…」
アスカの反応はリツコにもなんとなく納得できた。ミサトに生返事をして、もう一度レイを見る。
やはり、彼女はシンジを見つづけたままだ。
何を考えているのか、そう問い掛けようかと思った。いったい、レイが彼の、抜け殻でしかない今のシンジの何を気にしているのかと。
リツコには感じ取れないなにかが、あの蒼い髪の少女には見えるのだろうか。
人ならぬ輝きを放つ、彼女の紅い瞳ならば。
一つの光景が、突然脳裏に浮かんだ。
ずっと以前に見た少年と少女の姿が。
まるで啓示のように。
思わずレイのほうに歩み出そうとした、その時。
部屋の入口の向こうで騒ぐ声がした。
揉めているようだ。
「…何かあったのかしら」
訝しげに、ミサトが呟く。
扉が開き、誰かが入ってきた。マヤだ。
「す、すみません、葛城さん! あ、先輩も」
「どうしたの? なんの騒ぎ?」
「そ、それが…」
開いた扉の向こうには、警備の連中だろう、何人かの黒服が固めている。
チルドレンがいるから、そのこと自体はおかしくはないが、目に付かないようにするのが方針のはずなのでイレギュラーがあったことはわかる。
そして、リツコは気づいた。
長身の黒服たちの向こうで、彼らの肩越しに見え隠れする人影に。
銀色の髪に。
「…なぜ、彼がここにいるの?」
ミサトも気づいたようだ。その声は、リツコの隣から聞こえた。
「あの…ゲートのところで声をかけられたんですが…シンジくんに会いたいって…それで…」
自分に訊かれたと思ったのだろうか、しどろもどろにマヤが答える。
黒服の男たちは、壁を作りながらもこちらを見ている。
何ごとかと、座っていたシンジも立ち上がっている。
ミサトに頷きかけた。
「いいわ、通してあげて」
ミサトの声を合図に、黒服たちの壁が割れた。
ゆっくりと、一人の少年が部屋の中に入ってくる。
写真と同じ銀色の髪、紅い瞳、そして写真と同じままの笑顔。まるではりつけでもしたかのような。
突然のことに驚き緊張している皆とは対照的に、とてもリラックスしたようすだ。
それが、ミサトの、シンジの、レイの、そしてリツコの、フィフスチルドレン、渚カヲルとの出会いだった。
階段を上る前に、リツコはコンクリートの建物を一度見上げた。
仕事を終えた後、ここに来たのは、昼間のことが影響していると自分でもわかっている。
街灯の光すらほとんど届かない。他には誰も住んでいないのか、通路を照らす灯りも途切れていた。
時刻は午後10時。家にいることは電話で確認している。
護衛の者がいるはずだが、ここまで止められることは無かった。しかし、ゲンドウのもとに連絡はいっているだろう。盗聴されるかもしれない。
それも、リツコにとってはもはや気にする必要はない些細なことだった。
402号のプレートが示すドアには、あいかわらずダイレクトメールやちらし、封筒の類が無造作につきささっている。先の零号機爆発以来都市の機能は寸断され、郵便などは配られていない、だから、ずっとこのままなのだろう。
以前ここにきた時から数カ月、何もかもが変わってしまったのに、この場所だけは、時間が止まっているようだった。
ドアを二回ノックした。
しばらく時間が経った後、ゆっくりと開かれる。前回同様、鍵はかけていなかったようだ。壊れているのかもしれない。
「こんな夜更けに、悪かったかしら?」
「…いいえ、かまいません」
レイが感情のこもらない声で答えた。
着ているのは寝巻きだろうか、私服姿の彼女をみるのもひさしぶりだ。
1Kの小さな部屋には、応接用のソファやテーブルセットは置かれていない。床は直に座るには冷たそうだったので、机のイスを借りることにした。立っていたレイをベッドに腰掛けさせる。
しばしの沈黙の後、切り出したのはリツコからだった。
「…約束を、守りに来たわ」
そう言って、バッグから一通の封筒を取り出す。レイから受け取ったシンジの手紙だ。
差し出したそれを、受け取ろうと手を伸ばしかけて、レイがリツコに目で問い掛けた。いいんですか、と。
頷いて応える。シンジが望むかは不明だが、リツコはそうしてもいいと思った。
手紙を受け取り、レイが便箋の文字を目で追っている。
ダミープラントの存在や、今のレイが二人目であることに手紙は触れている。しかし動揺している様子はない。手も震えてはいない。
だが同じ個所を何度も繰り返し読んでいるのは、その様子からわかった。
読み終わったのか、顔を上げた彼女がこちらを向く。
「…信じられない?」
リツコの問いかけにはイエスもノーも返っては来なかった。
便箋がもとのように封に入れられ、リツコに差し出される。受け取り、バッグに入れた。
沈黙がしばらく続き、次に口を開いたのはレイだった。
「…どういう、ことなんですか?」
「書いてあったとおりよ。世界を壊さないこと、それが彼の願いだったわ。今の状態はその結果、正直言って、私にわかっているのはそれだけね」
「……」
レイは黙り込んでしまった。
リツコの言葉に、納得したのかはわからない。かまわず、リツコは本来の用事を進めることにした。
約束などいいわけであり、目的は別にある。シンジの手紙は、そのための代価だ。
「今日会った、渚カヲル、あの子のことはどう思った?」
「……彼は、何者なんですか?」
「フィフスチルドレン、仕組まれた子ども。…そして、おそらくあなたと同じ、人によって創られたヒトね」
「同じ、でしょうか」
「正確には違うのかもね。似てはいるけれど、同じではない、そういう存在」
本部地下にあの白い巨人がある以上、彼がリリスから造られた、などということはありえない。
もうひとつの神的存在、弐号機以降のエヴァたちの起源でもあるアダムが、その源だと想像できる。
「興味はある?」
「…いえ」
レイの言葉に、嘘は含まれていないように思える。
今日格闘場で、カヲルはまずシンジに声をかけた。まっすぐに彼のところに歩み寄り、はじめましてと親しげに言っていた。
最初驚いていたが、シンジもきちんと話していたように見えた。本部の誰とも違いスタートラインが同じなのだ、彼自身覚えていない彼のことを知らない相手なのが、きっとよかったのだろう。
その後、割って入ったミサトやリツコに挨拶をし、そしてようやくカヲルはレイのほうにその同じ色の瞳を向けた。ミサトが紹介してからやっとだ。
儀礼どおりに軽く会釈をしただけのレイに取り付く島もなかったのか、カヲルとレイはほとんど話してはいまい。
「そう、でも、あなた、シンジくんには興味はあるみたいね。感情を出さないあなたが、いつもずっと見ているもの」
レイがリツコの目を見つめる。睨むように。
気圧されることも無く、リツコは言葉を続けた。
「レイ、彼は、あなたに何を話していたの?」