Evangelion Sword & Grail
 


『……ええ、こちらの弐号機は最終調整を終え、明後日にでもセカンド、セミ・セカンド チルドレンと共に出航の予定です。』
「そうか…」
 薄闇に包まれた広大な部屋の中、そのほぼ中央に置かれた大きなテーブルに備えつけら れた受話器を手にし、聞こえてくる男の声に赤いサングラスの男が答えていた。
 ジオフロント・ネルフ本部司令執務室。
 席に座すのはネルフ司令、碇ゲンドウただ1人。
 薄闇の中、部屋の側面が総強化ガラス張りであり地上からジオフロントに取り込んだ光 が入ってくるのにもかかわらず、ゲンドウの顔には逆光となってサングラスもあいまって その表情は読み取れない。
 恐らくそれを意識した配置なのだろう。
『オーストラリアで建造中の参号機も最終調整に入ります。恐らく参号機の方がわれわれ よりも早くそっちに着くでしょう。空輸ですしね』
「…そうか、それより例のモノはどうなっている?」
『…ええ、彼女の報告によると、マーレボルジャでは“あれ”を渡してやっただけですん なり渡してくれたようです。こっちはかなりてこずりましたが、なんとか確保しましたよ。 …しかしよかったんですか?あっさり“あれ”を渡してしまって。』
「かまわんよ、メモはこちらが握っている。どうせニムロデの狂人どもには何も読み解く ことはできん。…キミはただ“それ”を無事にここまで持ち帰ってくることを考えてくれ ればいい」
『…わかりました、では』
 プッと通話が切れると、ゲンドウは静かに受話器を置いた。
 そしてテーブルの上に肘をついて両手の指を組むと、誰にとも無く呟いた。
「……いつになったら…………………イ…」
 その呟きを聞いていたのは、完全防音のこの広大な部屋の天井に描かれた、虚空より流 出する光の流れの形象、セフィロトの樹だけか…



Evangelion Sword & Grail 第4話
光射さぬ、地の底にて




 ガラガラと教室のドアを開けると、少年は自分の座席に学生カバンを置き、席に座ると ふあと欠伸をしながら何気なく自分の腕時計を眺めた。
(7時42分、か)
 まだ朝早いうちから登校した少年。まだ朝のうちなので割と涼しいが、この常夏の国で 長袖のシャツに身を包んだ珍妙な少年。言わずと知れた碇シンジである。
 しばらくぼうっとしながら座席の背もたれに寄りかかっていると、再びガラガラと音が し、1人の少女が教室に入って来た。
 白に近い蒼い髪、赤い瞳の少女。包帯の取れたその姿は、年中夏のこの世界で失われた 雪の結晶の如き硬質の美貌。
 綾波レイである。
 「あ、おはよう、綾波さん…」
 シンジは席から立ち上がり、おずおずと挨拶した。
(…今まで挨拶して、何か返事を返してもらったこと、ないんだよなあ…嫌われてるのか な?)
 シンジがこの中学に通うようになって早1ヶ月。唯一の顔見知りであった彼女には何度 も挨拶するのだが、シンジに返事が返ってきたことはまだ1度もなかった。
 シンジに対してだけではない、他の人間たちに対しても無関心に見える。
 約1名の例外を除いて。
 レイはシンジの方にちょっと視線を向けただけである。
「今日は、僕と綾波さんが週番なんだ、よろしくね」
 そう、今日はシンジとレイが週番なのだ。出席番号もシンジは男子で2番、レイも女子 で2番なのだ。男子で2番以降の者の出席番号はシンジの転入の際に順送りになった。
 ちなみに男子出席番号1番は相田ケンスケ、女子1番は秋本カナという。
「…そう」
 レイはカバンを自分の席に置きながらも無表情に答える。
「…じゃ、行きましょ」
 シンジの方を見もせずに淡々と言うと、スタスタと職員室に向かって歩き出す。
「あ、待ってよ」
 慌てて追いかけるシンジ。追いつくとレイの左半歩後ろについて歩き出す。
 週番は7時50分までに職員室へ行って日誌を受け取ってこなければならないのだ。
「……」
「……」
 始終無言で職員室へ向かう2人。
(綾波さん、か……)
 彼女の後姿を眺めながら、シンジは彼女の赤い瞳を見るたびに感じるわけのわからない 感覚について思いをめぐらせていた。
 既視感、喪失感、何かとても大切なことを忘れているのにそれを思い出すことができな いという感覚、焦燥感。
 知っているはずなのに知らない、知らないはずなのに知っている、わからない。
 同じエヴァのパイロット、同級生、それだけではない何かを感じる。
(気のせい、だよなあ……)


 シンジと、最小限度の連絡事項を事務的に言葉にするだけのレイはそれでも週番の朝の 仕事、花瓶の水替えや黒板の掃除、教師から渡された配布プリントの整理などをつつがな く終え、午前中の授業も滞り無く済み、今は昼休み。
 シンジはトウジ、ケンスケと共に教室で机を並べて自家製弁当を広げていた。
「えーなあ、センセは、うまそな弁当や」
 もの欲しそうにシンジが青い布巾を開いて取り出した白い弁当箱を見る。
「トウジだって自分で作ってくればいいじゃないか?慣れれば結構簡単だよ」
 シンジが両手を合わせて「いただきます」をしてから箸に手をつけ、言った。
 シンジが第3新東京市に来るまで暮らしていた向日葵園では、8歳以上の子どもは食事 当番が回ってきた。
 もちろん職員が見守り、手伝う中でのことだが、火を使い、実際に自分たちの食べるも のを調理する。セカンドインパクト以降、復興の兆しを見せ始めたとはいえ、かつての飽 食時代にそう簡単に戻れるはずもなく、第3新東京市や第2東京に暮らすのでなければほ ぼ自然状態の食材を調理する技術が、生きていくためには必須だった。
 向日葵園は、子どもたちがいつどこでも生きていけるように、病める子どもの治療とと もに生きる技術を教えていくことを目標としていた。
 シンジもまたそんな教育方針のもとで料理を学んでいったのである。もともと才能があ ったのか、生来の器用さか、みるみる上達し、遊びで作ったお菓子などは一緒に暮らす子 どもたちに大好評だった。
 喜ばれれば、またやりたくなるのが人情、シンジの料理の腕はかなりのものになった。
 まあそれはさておき、そんなわけで、第3新東京市に来てからシンジは腕を鈍らせない ためにも自炊生活を続けていた。独り暮しであるし。弁当まで作ってくる。
「そんなことできへん!男のすることやない!」
 憮然としながらトウジは自分の机の上に山積みになった購買のパンの中から焼き蕎麦パ ンを取り出すと、封を切ってガシガシと齧りだした。
「…このご時世、男も女も関係ないと思うけどな」
 などと冷めたことを言いながらこっちも購買のカツサンドをパクつくメガネの少年・ケ ンスケ。
 ちなみに彼も父がネルフ職員の父子家庭、弁当を作ってくれるような存在はいないよう だ。
「そうだよトウジ…あっ!」
「ヒッヒッヒ、隙ありじゃ」
 シンジがトウジに何か言おうとちょっと弁当から目を離した隙に、トウジの手が飛燕の ごとく素早く動き、シンジの弁当から鶏のから揚げをかっさらって自分の口に放り込む。
「もふもふ……くっくっく、いつ食うてもウマイわシンジ。ホンマ言うとセンセ、どっか に馴染みの女でもおるんとちゃうか?」
 などとニヤつきながら何やらあやしげな口調で訊くトウジ。
 昼休みの何かとおしゃべりで騒がしい教室がピキーンと一瞬で、特に女子の固まった場 所を中心に静まりかえった。
 幾人かの女子たちがチラチラとシンジたちの方を伺いながら聞き耳を立てている。
(おねがい碇君、否定して、おねがい…)
(そんなあ……碇君、フリーよね!フリー!)
(碇君、あなたを信じさせて……)
 彼女等の心情はかのようなものだった。
 実はシンジ、この2週間ほどで、女子の間で人気急上昇。
 先の使徒との戦闘後、シンジと仲良くなったトウジとケンスケはシンジにまつわるHell's  Angelとしての不穏な噂を払拭すべく活動を開始、目が合ったら刺されるとかすれ違うただ けで腕を折られるとかそんなん嘘や、アイツはウチの妹助けるんに命令無視までやって体 張ってくれたんや、などとトウジが語れば、ケンスケは病院から撮影した先の初号機と使 徒の戦闘シーンをクラスメイトたちに見せたりとかなんとかかんとか。
 そんなわけで、シンジは決してそれを鼻にかけない人類を守るヒーローとしてクラスの 評価が定着してしまった。
 おまけにシンジは中性的とも言えるやや繊細な容姿を持つ結構な美少年。
 ルックスだけならシンジよりも上の男子はいるにはいるのだが、人類を守るロボットの パイロットである上に謎めいたその過去、時折垣間見せるその年齢とは思えぬ翳り、その あたりが一部の女子生徒のハートをピンポイントで直撃するらしい。
 シンジに憧れる女子生徒はたった2週間で一中3学年で結構な数に昇った。
 まあそれはともかく。
「い、いないよっ!そんなひと…」
 ちょっと顔を赤くして否定するシンジ。
「お、あやしーなあ」
 キラーンとケンスケの眼鏡が輝く。
 シンジはただ、同年代の人間とあまり付き合いが今までなく、その手の冗談に慣れてい ないだけなのだが、その戸惑う姿は友人2人を悪ノリさせる。
「…綾波かあ、センセ?、知っとるでえ、いつも熱心に見とるやろ?」
「…渋い趣味だな、シンジ」
 鼻息荒く、あやしい目つきで詰め寄るトウジと輝く眼鏡が表情を消し、何を考えている かわからなくなってさらにあやしいケンスケが詰め寄る。
「っち、違うよ、アレはそんなんじゃなくって…」
(見られてたのか……)
 レイを見る度に感じる奇妙な感覚、その正体を知りたくて、シンジはよくレイに視線を 向けていた。
「お、アレってことは認めるんやな?」
「照れるなシンジ」
「違うって!…ただ、同じエヴァのパイロットなのに、綾波さんのこと、あまり知らなく て…だから…」
 真顔で、少ししんみりした口調で話すシンジ。
「…ねえ、綾波さんっていつもああなの?挨拶しても返事もくれないし……ただ嫌われて るだけかもしれないけど…」
 シンジが訊く。
「まさか、綾波は半年くらい前に転校してきてからずっと誰に対してもああさ。今じゃ挨 拶してるのなんかシンジくらいだぜ」
 ケンスケがレイ転入当時のことを話し出した。
「…あのルックスだろ? 一中に来たときは言い寄る男も多かったけど、みんな相手にされ ない、というか存在そのものから無視されて自然消滅。男だけじゃない、友達になろうっ て話しかける女子にもそうだった。…それで結局みんな綾波を避けるようになって今に至 るってわけだ」
「ふうん」
「ホンマはごっつ性格悪いんとちゃうか?」
「それでもオレの調べた一中美少女ランキングには常に3位内に入ってる。あの誰も寄せ 付けない孤高の美貌のファンは結構多いんだぜ」
「ねえ、それってどうやって調べたの?」
 シンジは不思議に思って訊いてみた。
「オレ様の写真の売上高さ。」
 誇らしげに胸を張るケンスケ。
(ふふふ、今じゃおまえの写真もかなりの売上を見せている、今月中に一中美少年ランキ ング入りは確実だなシンジよ。稼がせてもらうぜ、ひっひっひ……)
 シンジはケンスケを感心したような呆れたような複雑な顔で見ると、チラリと後ろを振 りかえって窓際、後ろから2番目の座席を見た。
 そこでは蒼い髪の少女が無表情に机に文庫本を広げ、パックの牛乳とビスケットタイプ の携帯食、ビタミンの錠剤というシンプル極まりない食事を摂っていた。
(あの男が助けた子、か…だから気になるのかな?)
 シンジは昨日交わした会話に思いを馳せた。



 ゴウンゴウンと音を立て、空冷設備がフル稼働している。
「うーさぶさぶ…このあたりなんだけどねえ……」
 シンジの前を行く女性が言った。吐く息が白い。
 頭に安全第1、翠の十字の入った黄色いヘルメット。長く美しい黒髪も今は何重にも着込 んだオレンジ色の防寒具の中にしまった特務機関ネルフ作戦部長・葛城ミサトだ。
「…また迷ったんじゃないんですかあ?」
 ミサトの後ろでシンジがぼやく、シンジもミサト同様ヘルメットにオレンジ防寒具の出 で立ちだ。
「うっさいわねー、そんなこと言ってるとココに置き去りにするわよ!」
 シンジが周囲を見渡すとあちらこちらで防寒具を着込んだ人々が、幾つもある直方体の 透明なコンテナに詰め込まれたモノについて何やら作業を行っている。
 ネルフ第7保管室、通称“冷蔵庫”。
 主に使徒の組織の解体・分析を主に行う広大な場所である。
 高温による使徒の組織の劣化速度を食い止めるため、ここは常にマイナス30℃に保たれ ているため、その名称がついた。
 ミサトとシンジがしばらくそのまま進むと、ワイヤーに吊り下げられた巨大な鈎針のよ うなものの前で、手にしたボードに熱心に何か書き込んでいる人物が目に入った。
「どう、リツコ、進んでる?」
 ミサトが声をかけた。
「あらミサト、何しに来たの?」
 いつもは白衣の知的な美女も、こう着膨れていてはあまり格好良くはない。
 最も格好を気にしたら5分も保たない場所だが。
「シンジ君に間近で使徒を見せてあげようと思ってねん。連れてきたのよ。」
「すみません赤木博士……お邪魔でしたか?」
「かまわないわシンジ君…あなたのおかげでこうしてほぼ全パーツの揃ったサンプルが入 手できたんだから…ありがたいわ。それに私もリツコでいいわよ。あなたもミサトとは名 前で呼び合ってるんでしょう?」
 ニッコリ笑ってシンジに答えるリツコ、使徒のサンプル入手にちょっとご機嫌のようだ。
「わかりました……リツコさん」
「よろしい」
 シンジが目の前の巨大な鈎針状のものを見上げる。
「……これが、あの使徒の毒針なんですか?」
「そう、あの尾の先端部分」
 シンジの問いにリツコが答える。
「なんだか…図鑑でしか見たことないですけど、蠍の尾に似てますね?」
「……そうね、確かに似てるわ」
 ミサトも同意する。
「使徒って…巨大生物なんですか?」
 シンジが訊く。
「…それは…まだなんとも言えないわ、ちょっとこっちに来てくれる?」
 リツコがどこかへシンジとミサトを誘おうとした時、シンジにとってはあまり気分の良 くない声が後ろから響いてきた。
「赤木博士、分析の方は進んでいるか?」
「…司令…」
 リツコ、シンジ、ミサトが振り向くと、そこに立っていたのは防寒具を着込み、こんな 場所でも曇らない赤いサングラスをかけた長身の男、碇ゲンドウと常にゲンドウに付き従 っている老紳士、冬月コウゾウ。
 シンジが、無表情だがあの凍てついた視線でゲンドウを射る。
 そしてゲンドウに寄りそうようにその隣には赤い瞳の少女、綾波レイがいた。
 少女を見て、一瞬、ほんの僅かにリツコの頬がピクリと動く。
「…目下技術部の総力を挙げて調査中ですが、肝心の使徒の動力源と見られるコアについ てはなにぶん劣化が激しく、成果はあまり期待できません」
 リツコが報告する。
「…そうか、とにかく分析を進めてくれ、劣化した部分は全て破棄してかまわん」
「はい」
「コアの劣化していない部分はどこかね?」
 冬月が訊いてきた。
「ああ、あちらのコンテナになります。案内いたしますわ…」
 リツコは司令たち3人を促してシンジたちを誘おうとした方角とはあさっての方向に向 かって行ってしまった。
 やりとりから取り残され、ポツネンと置いてけぼりになるミサトとシンジ。
「ま、まあ仕方ないわシンジ君、ネルフは軍隊、しっかり優先順位があるのよ」
 ミサトがシンジに慌てて言いつくろう。戦場で命を賭ける実の息子に完全無視を決め込 んだゲンドウの態度について言ったのか?シンジたちよりもゲンドウたちを優先させたリ ツコについて言ったものか?恐らく両方だろう。
「…別に気を遣わなくていいですよミサトさん。気にしてませんから…」
 しかしシンジのその目は去り行くゲンドウとレイの後ろ姿を確かに追っていた。
 実の息子を捨てた男と奇妙な既視感を与える少女の繋がりを訝しみながら。


「ごめんなさいね、ミサト、シンジ君。なにせ碇司令が直接ここに視察に来るなんて思っ てもみなかったのよ」
 第7保管室・分析室。
 広大な冷蔵庫の片隅にあり、ここで調査・分析の結果得られたデータをネルフが誇るス ーパーコンピューター・マギに送るのである。
 各種端末や計測機械が置かれた一室で、デスクに座ってリツコが凄まじい早さでキーボ ードを叩いていた。
 ここは常温に保たれ、リツコは防寒具を脱ぎ、いつもの白衣のスタイルに戻っている。
 ゲンドウたちを案内し一通りの解説と報告を済ませた後、帰ってきたリツコに同行して きたシンジとミサトも同様である。
「はい、シンジ君、砂糖抜き、ミルク入りでいいのよね?」
「あ、どうも」
「私はブラック」
「わかってるわよっ!ほい」
 ミサトが備え付けのコーヒーメーカーからコーヒーを注いでシンジとリツコに渡し、自 分の分を注ぐ。
 シンジは壁に何するとも無く寄りかかって熱いコーヒーをすする。冷え切った体に暖か さ染み入るようでおいしかった。
「で、さっきの続き、何かわかったの?」
 ミサトが一心にキーを叩くリツコの背後からディスプレイを覗きこみながら問うた。
「…それなんだけどね」
 カッとリツコがEnterキーを叩くと、ディスプレイの入力画面が切り替わり、大きく数 字が画面一杯に表示された。その数字は601。
「なにこれ?」
「601、解析不能を示すコードナンバー…」
 リツコが解説する。
「つまり、使徒の正体はわからないってこと?」
「ありていに言ってしまえばそうね。」
 キイとリツコが椅子の背もたれに寄りかかり、伸びをするとカップを手に取りコーヒー を一口飲んだ。
「…でも全く何もわかっていないわけでもないわ。これを見て」
 カップを置くと、リツコが再びキーを叩く。
 ピーッというビープ音とともに表示された何かの信号パターンが表示される。
 それを見たミサトの目が驚愕に見開かれた。
「これって…人間の…」
「…そう、ヒトゲノムの塩基配列のパターンによく似てるわ、でもね、これはヒトのもの ではないの」
「じゃあ…」
「そう、使徒の持つ固有波形パターン、その座標と位置。構成物質は違えどヒトゲノムの 塩基配列のパターンと99.89パーセント一致してるわ。つまり物質は異なっても体を構成 する規則はほぼ人間と同じなのよ」
「でもその一致率って…」
「…そう、エヴァと一緒よ」
 とネルフ技術部長と作戦部長が使徒の正体について問答を交わしている時、壁に寄りか かってコーヒーを飲むシンジは全く別の関係ないことを考えていた。
(綾波レイさん、か……)
 シンジはその姿を思い起こす。はじめて見るはずなのに、何故か懐かしさと胸の痛みを 感じさせるその赤い瞳。
「じゃあ使徒を構成する物質ってのはなんなの?」
(どうしてあんなヒドイ怪我してまで、エヴァに乗ろうとしたんだろ?)
「使徒のあの形はね」
(それにいつもあの男と一緒にいるよな…)
 レイが先週ネルフの病院を退院してから今日に至るまで、シンジがレイを目にする時は 常にその横にあの男・碇ゲンドウがいたのだ。
 エヴァのケージでも、廊下ですれ違う時も、学校でレイを目にする時以外はほとんどそ うであった。
 未だ起動を見ていないエヴァ零号機の専属パイロット。その調整のためやもちろん訓練 もあるのだろうが、どうもそれだけではない気がする。
(気のせいかもしれないけど、あの男といる時は綾波さん、幾らか和らいだ感じがするん だよな……あの男が僕以外に作った隠し子?囲ってる年若い愛人?だとするとあの男はペ ドファイル?ロリコン?)
 荒んだ場所で育ったせいか、どうも発想が俗っぽいというか生臭いシンジ。
「…粒子と波、両方の性質を持つ、光のようなもので構成されているの」
(……ちょっと無理があるか、愛人に兵器のパイロットなんかやらせないよなフツー)
「…そんなもので!じゃあどうやってあの形を保っているのよ?」
「わからないわ、全ては未だ多くの謎を秘めたままよ…きっとあのコア、光球が……」
 (…でも自分の息子を10年以上も放っておいて、いきなり呼びつけたら謝罪もしないで 兵器に乗り込ませるようなヤツだからフツーなんて通り越してるか…)
「…シンジ君?聞いてる?」
 ミサトが、壁にもたれたまま視線を手にした空になったカップに向けてぼうっとしてい るシンジ目ざとく見つける。
(あれ?不思議だな、他人にこんなに興味を持ったことなんて今までなかったのに…)
 他人のことを知りたい、そんなことを思ったのはとても久しぶりのことのようにシンジ には感じられた。
「ねえ、シンジ君?聞いてるの?」
(いったいあの2人にどんな関係があるんだろ?…上司と部下の関係?心の結びつき?肉 体関係?)
「肉体カンケー!?」
 シンジの発言にミサトが素っ頓狂な声を上げる。
「…そう、肉体関係、さもなければって…え?」
 目の前で目を真ん丸くひん剥いてシンジを見つめるミサトに驚いて、漸く思考の渦から こちら側へ帰ってきたシンジ。
 どうやら知らず知らずの内に内心の呟きが口に出てしまっていたようである。
「…シンジ君、あなたこのオネーサマがたがとってもためになるお話してたのに何?一体 何考えてたの?ん?オネーサンに言ってごらんなさい」
「わあっ!」
 ニタアと笑いながらシンジの首に腕を回して締めるミサト。口は釣りあがって笑ってい るように見えるが目の奥底の輝きが笑ってない。こめかみがピクピクしている。
「ぐ…ミ、ミサトさんくるじ……」
 ぱんぱんとミサトが締める右腕を叩くシンジ。ギブアップの合図らしい。
「何考えてたの?ちゃんと話す?」
 ミサトの問いにコクコクと頷くシンジ。
「ではよろしい。さ、話しなさい、さっき司令たちに会ってから、少し変よ? シンジ君」
 ようやくシンジの首に回った腕を解くミサト。ちょっと心配顔だ。
「…いや、その」
「何?」
「綾波さんって…いつもあの男と一緒にいるなって…」
 ためらいがちに、しかし正直に語り出すシンジ。
「あの男って、碇司令のこと?」
「はい」
 シンジは返事と共に頷く。
(やっぱり少しショックなのかしら?自分と同い年の子が実の子の自分を顧みない父親と 親しげにしてるんですものね…無理もないか…でもあたしもちょっち不思議に思ってたの よねー)
 などと思いながらミサトがここネルフ本部では自分より古株のリツコに話をふる。
「ねえリツコ、何か知ってる?」
 キイとイスを回転させてリツコがシンジたちの方を向く。
「…そうね、あの子はセカンドインパクト後の混乱期の孤児の1人で、エヴァの適性を見 出されてからはずっとここで暮らしてるの。私がここに来たのはもう10年も前になるけど、 もうその時あの子は既にいたわ」
(過去の経歴は白紙、全て抹消済み…)
「そんなに昔から……」
 シンジが驚く。
「もうその時から碇司令はあの子を実の子のように扱っていたわ。何故なのかはわからな いけどね」
(本当は、わかってる、わかりたくないだけ、なのにね……)
 リツコが心の内で自嘲する
「レイ、あの子も司令を親のように思っているのでしょうね、きっと、…こんなことがあ ったわ」
「「?」」
 シンジとミサトが興味津々で聞き耳を立てる。
「シンジ君、あなたがここへ来る前に、エヴァ零号機の起動実験中に暴走事故があったの 聞いてる?」
「はい、それでパイロットの綾波さんが大怪我したって…」
「そう、その時誤作動でエントリープラグが射出されてしまったの。あの狭い第2実験場 で……そのプラグの中にいたレイを碇司令が助け出したの、加熱したハッチを素手で無理 矢理こじ開けてね…まだその時の火傷の跡が掌に残ってるわ……」
 リツコは一息つくようにカップに口をつける。
「あんなに取り乱した碇司令の姿、はじめて見たわ…」
 その時の情景を思い出し、リツコは一瞬忌々しげに眉を寄せた。
 本当に一瞬のことで、シンジもミサトも気づかない。
「そんなことが……」
 呆然とするシンジ。
 無理もない、シンジにとってゲンドウは人を道具のように使い棄てることはあっても、 誰かを助けるなんて到底ありえない人間として評価されていた。
「あの男が本当にそんなことしたんですか?」
 10年以上実の息子を放っておいて、呼び出したかと思えば居丈高に命令してくる自分の 父と名乗る男、ゲンドウ。嫌悪しか感じさせないその男がそんなことをするなんてシンジ には信じられなかった。
 最初に初号機に乗り込んだ時だって明らかに重傷のレイを戦場に送り出そうとしたのだ。
「…事実よ。」
 リツコがシンジの問いに答える。
「ふーん…そうなんだ…ちょっちシンジ君?」
 リツコの話も一段落ついたと判断したのか、ミサトが口を開く。
「はい、何です?」
「さっきから気になるんだけど…余計なお世話かもしれないけど、あなたずっと碇司令の こと“あの男”って呼んでるの、あまりいい感じしないわ。どういう経緯があるにせよ、 あなたの実のお父さんなのよ?」
「…僕に親なんかいませんよ………」
 ミサトの言葉にシンジの顔から表情が消え、冷たく乾いた声が返る。
「でも……」
 なおも言い募ろうとするミサト。
「実の父親にレイプされた子や母親に殺されかけた子を僕は大勢見てきました。血が繋が ってさえいれば親子というわけでもないでしょう?」
 シンジの言葉にミサトは何も返す言葉が見つからない。



 放課後、シンジは教室のゴミを焼却炉に捨てに行った帰りに、職員室の前で彼の所属す る2−Aの担任である初老の、眼鏡をかけた白髪の目立つ教師に呼びとめられた。
 セカンドインパクト前から教師をやってきた教師一筋30年のヴェテラン。口癖は「皆い い子ですから…」シンジの経歴を知ってても色眼鏡で見ない根性のあるいい先生だ。
 たまにセカンドインパクト当時の話をえんえんと授業時間中し続けることを除けば、だ が。
「ちょっといいかな?碇君」
「あ、なんですか先生?」
 シンジは抱えていた2つのゴミ箱、1つは不燃物用、もう1つは可燃物用、を傍らに置 く。
「すまないが、これを2−Aの教室の廊下側、外の掲示板に張り出しておいてくれないか ね」
 と言って教師はシンジに丁寧に丸めた大きな紙と画鋲の入った小さな四角いケースを渡 した。
「それが済んだら今日の週番の仕事は終わり。日誌を提出して帰ってくれたまえ。」
「これ、なんですか?」
 シンジが怪訝に訊くが。
「…碇君、キミはもう少し勉強について考えてみた方がいいかもしれませんねえ」
「?」
 戸惑うシンジをそのままに、言うと教師はさっさとクーラーの効いた職員室に入って行 ってしまった。
(なんだろ?…でもどうやって運ぼう)
 2つのゴミ箱と今渡された紙と画鋲をどのように一度で運ぼうか悩むシンジだった。


 しょうがないので紙は右の小脇に抱え、画鋲のケースはシャツの胸ポケット、ゴミ箱は 両手でという配置で教室まで戻った。
 一旦ゴミ箱を置いてガラガラと教室のドアを開ける。
 そこでは窓際の自分の席で、開いた窓から吹き込む風に蒼い髪をなぶらせて、白い少女 が日誌を書き綴っている。
 窓の向こうの青い空と白い雲、そして少女の蒼い髪と白い肌、日誌を見つめる赤い瞳、 ペンを走らせる白い繊手。
 さながらそれは一枚の絵の中の風景のようで。
 シンジはぼうっと見とれてしまった。
(…まるで絵の中から出てきたみたいだ………はっ、仕事しなきゃ)
 シンジは気を取り直すとゴミ箱を教室の定位置に置き、脇の紙とポケットの画鋲ケース と取り出してレイに近寄っていく。
 なんか話しかけるのが躊躇われるが、なんとか決心して話しかけた。
「あの、綾波さん…」
「…何?」
 レイは目線も上げずにシンジに訊く。
「さっきこれを廊下の掲示版に貼り出すように言われて、1人じゃ難しそうだから、ちょ っと手伝ってくれないかな?これが終われば今日の週番は終わりだって」
 レイはシンジの手にした丸めた大きな紙と画鋲ケースに視線だけ送ると
「…わかったわ」
 と答えた。


「ちょっとこれを持って先に出てて」
 シンジが紙と画鋲ケースをレイに渡す。
 するとレイはさっさと教室を出て行ってしまう。
(ちょっとくらい何をどうするのか訊いてくれてもいいのに…)
 と思いながらシンジは教室から手ごろな椅子を2脚持って教室を出た。
 するとそこには紙と画鋲ケースを持ったレイが無表情にポツネンとつっ立っていた。
「紙を広げるから、そっちの端を持ってて」
 レイから紙を受け取ると、シンジは片方の端をレイに持たせ、自分は丸まった部分を持 って後退する。
 広がった紙に記されていたのは…
「あっ!」
 シンジが小さく叫ぶ。
 レイは黙って無表情に眺めているだけ。
「この学校、成績と順位の発表やるんだ…」
 そう、そこにはつい先週行われた中間テスト、国語・数学・英語・理科・社会の5教科 の総合得点と学年順位が名前と共に書かれていた。
 やはりこういう時には真っ先に自分の順位や知人・友人の順位、そして成績上位者の方 に目が行く。
 一中2年は2クラス63人しかいないため、すぐにわかってしまう。
(……僕は47位か…さっき先生はこのことを言いたかったのか、おせじにもいい成績じゃ ないもんなあ…トウジは51位、あいかわらずというか予想通りというか…ケンスケは31 位か、手堅いなあ…)
「…碇君」
「へ?」
 友人と自分の成績を比べて色々考えていたところに声をかけられ、マヌケな反応をして しまうシンジ。
「…貼らないの?」
 シンジが見上げると、レイの赤い瞳が自分を見ている。
「あ、ああごめん、うん、やろう!…この椅子に乗ってそっち側からこの画鋲で留めてい ってくれる?」
 と言ってシンジは自分用に画鋲を6個ほど手に取ると、ケースごと画鋲を渡す。
 無言でシンジの指示に従うレイ。
 シンジは教室から持ち出した椅子を置くと上履きを脱いでそこに上がり、成績順位の書 かれた紙の右端から留めていった。
 丁度縦書きに書かれた成績上位者が目にとまる。
(ふーん…5教科で483点なんてどうやったらとれるんだろ…あ!)
 そこでシンジの目にとまったものは
      第3位 綾波レイ 472点
「すごいや綾波さん、学年で3位だって!」
 思わず感嘆の声が出てしまうシンジ。あまり勉強しなくて成績が良くないシンジは素直 に頭のいい人間を尊敬してしまうところがある。
「…そう」
 しかしシンジの反対側で作業中のレイの反応は素っ気ないものだった。
「綾波さん、うれしくないの?」
 ちょっとは喜んだ顔や態度を期待していたシンジは作業を続けながら話す。
「…うれしい? わからないわ」
「普通は学校のテストの成績がいいとうれしいと思うんだけど…」
「…あのテストでは短期記憶から長期記憶への転送効率を測定することしかできないわ… 転送効率が良いとうれしいものなの?」
「?……うーん、ど、どうなんだろ?」
 逆にシンジはわからない難解な言葉で質問されて戸惑ってしまう。
 シンジからの言葉が途切れ、以後は2人とも無言で作業を続けた。
「……と、こっちはこれで終わり、と」
 シンジが作業を終えて椅子から降りると、まだ作業中のレイの方へ向かった。
 見れば不要な画鋲が既に刺してあって、それを除きながらの作業であったようでシンジ よりも時間がかかっているようだ。
 ボンヤリと、黙々と作業を行うレイを見上げるシンジ。
(……やっぱり、感じるんだよな…)
 レイを見る度に感じる、綺麗だ、という以外の妙な感覚。
 その時……
 グラッ
 レイの乗る椅子が揺れた。
 バランスを崩したレイが椅子からその足を踏み外す。
(あっ!)
 シンジの足元も同時にグラリと揺れ、直感的にシンジは悟る。
 ここ3週間ほど第3新東京市に1日2・3度は訪れる、地震だ。
(危ない!)
 咄嗟に倒れてくるレイを支えようとするシンジ。だが地震はまだ校舎を揺らし、シンジ も急にかかってきた重みと揺れる足元に、レイを抱えながら後ろに倒れてしまう。
 バタッ
「ぐはっ」
 後頭部は打たなかったものの背中をレイの体重を受け止めながら床にしたたかに打ちつ け、シンジの肺から空気が苦痛とともに吐き出される。
 シンジが下、レイが上でシンジが下からレイを抱く締めるようにその両腕がレイの体に 回っている。
(あ……)
 素に戻ったシンジはそのレイを下から抱きしめるような姿勢に気づき、顔から首筋まで 真っ赤になってしまう。
 ドクンドクンと急激に自分の鼓動が早まるのがシンジにはわかった。
 じーわじーわじー…
 しゃわしゃわしゃわしゃわ……
 ミーンミーンミー……
 周囲の音が遠くなり、ただ校舎の外から聞こえてくるセミの声と己の心臓の鼓動だけが 妙に鮮明にシンジには感じられた。綾波さんに聞こえたらどうしようなどと考えながら。
 腕にやわらかな体、女の子の持つ甘い香り、暖かく心地よいその重みにしばしぼうっと なってしまう。
 時間にして5秒ほどであったろうか、その感覚にシンジが顔を赤くして陶然としている と
「…離してくれる?」
 レイの赤い両目が至近距離・真正面からシンジの黒い瞳を見ていた。
 例の奇妙な感覚がより強くシンジを襲った。
「あ、ご、ごめん…」
 慌ててシンジは抱擁を解く。レイは何の感情も感じさせぬ無表情で立ちあがり、シンジ も続いて立ちあがる。
「…済んだわ、行きましょ」
 レイは言うと落とした画鋲ケースを拾い、椅子を教室の中に運び込む。
(…本格的に嫌われた、かな?)
 はずみとはいえ露骨に抱き締めてしまったのだ、女の子なら好きでもない男に抱き締め られていい気がするわけがない。
「……」
 そんなことを思いながらも、再びさっきのレイの感触を思い出してしまって顔を赤くし、 さらにそんな自分に自己嫌悪に陥りながらシンジは自分も椅子を片付けはじめた。


「…あの、綾波さん」
 シンジはようやく学校の玄関でレイに話しかけることができた。
 結局中間テストの成績順位発表を貼り終えると、既にレイによって記入済みであった日 誌を持って職員室へ行き、先生に挨拶して今は帰るところだ。
 その間2人は始終無言であった。
 1人は自分の行為についてどう説明し謝罪しようか悩み、1人は会話の必要性を感じな かったためだが。
 しかしシンジはその無言を腹立ちのせいだと勘違いした。
「…何?」
 相変わらずレイの返事は素っ気無い。
「さっきは、ごめん、嫌な思いさせちゃったみたいで…」
 シンジは言うと、軽く頭を下げる。
 シンジは既に上履きから靴に履き替え、レイは履き替えている途中である。
「…何故?」
「?」
「…何故、あやまるの?」
 靴を履き終え、カバンを持って立ちあがったレイがシンジをチラリと見てから言う。
「何故って…さっき…」
「…別に危害は加えられていないわ、だから謝罪の必要もない」
 そうまで言われては何も言えない、シンジは口をつぐむ。
(怒ってるのか、それとも嫌ってるのか、なんとも思っていないのか、綾波さんってほと んど表情に出ないからわからないんだよなあ…そうだ!)
 玄関を出て、前を歩くレイの後姿を見ながら今日はネルフでシンジはシンクロテスト、 レイは零号機の再起動実験があることをシンジは思い出した。
 普段ならば一度帰宅してからネルフ本部に向かうのだが、今日は週番があったため2人 とも直で行くことになる。
「あのさ、今日は零号機の再起動実験だよね?」
 シンジはレイの後ろから話しかけた。ネルフやエヴァの話なら、何か反応が引き出せる と思ったのだ。
「…そうよ」
 レイはシンジの方を見もせずに答える。
「今度は、うまく行くといいね」
「………」
「ねえ、綾波さんは、怖くないの?あのエヴァに乗って戦うことが……」
「…何故?」
「僕がここへ来る前に、アレに乗って大怪我したことがあるって聞いたから…僕もはじめ てアレに乗った時は怖かったし、今でも怖いよ」
「…あなた、碇司令の息子でしょう?」
 レイが急に立ち止まる。
 それに合わせてシンジも歩くのを止める。
「…信じられないの?お父さんの仕事」
 そのレイの言葉にシンジの瞳から急に温度が失われ、表情は冷気を帯びて嫌悪に歪む。
「…血が繋がってるだけであの男の何を信じろっていうのさ?」
 底冷えする、声。
 立ち止まっていたレイがシンジの方を振りかえり、キッと明らかにそれとわかる怒りの 目でシンジを睨み据えると…
 パアン!
 その白い繊手でシンジの頬を張った。
「…へえ、怒った顔はできるんだね、あの男をバカにされて、不愉快なんだ」
 シンジは悪びれもなくレイを見据えながら淡々と言った。
 レイを見つめるシンジの黒い目。
 それはまるで暗く濁った…しかしそれ故に底の見えない深き淵。
(…なんなの?この人………)
 レイは、背筋に冷たいものを押し付けられたような感覚と共に、今にもその目の奥から 何か得体の知れないモノが飛び出してきそうな錯覚に襲われた。
 その感覚の不合理さを十分に理解しながら……



Evangelion Sword & Grail:Episode 4
The depth




(あーあ…あれはまずいよなあ……あんなこと言うつもりなかったのに……)
 シンジは悔いていた。
 下校途中、ネルフへ向かう途中のレイとのやりとりを思い返す。
(綾波さんとあの男に何の関係があるって……ってなんかあるんだよな? きっと、でなき ゃ怒ったりしないもんな……)
 レイとシンジの2人は、校門を出てすぐに迎えに来たネルフ公用車に乗ってジオフロン ト・ネルフ本部までやって来た。
 恐らくレイのみを迎えに来たのだろうが、レイのみを乗せて同じチルドレンであるシン ジを放っておくわけにもいかないのだろう、運転手は事務的な誘いをシンジに述べ、シン ジもレイと一緒では気まずいだろうなあと考えながらも「こりゃ楽だ」と便乗した。
 運転手を含む車内の3人は始終無言だった。
(……別にいいじゃないか、彼女が僕を嫌おうが怒ろうが、それは彼女の自由だし、僕は このとおりの人間なわけだし………)
 自分は自分、他人は他人、それがシンジのスタンス。他人の中の自分にまで気を遣って などいられない。今まで自分が傷つけられずに生きるだけで精一杯だったから。
 シンジは両手を頭の後ろで組んで、クルーの邪魔にならない位置で壁に寄りかかる。
 ネルフ第3実験場・コントロールルーム。
 赤木リツコ博士と伊吹マヤ以下、技術部職員たちがせわしなく働いている。
 作戦部長としてミサトも立ち会っていた。
 前方の何重にもなった強化ガラスの向こうには、黄色いカラーリングの一つ目の巨人・ エヴァンゲリオン零号機が背部と両腕、両足を拘束具で固定されて立っていた。
 中のエントリープラグにはすでに専属パイロットである綾波レイが白いプラグスーツを 着て乗り込んでいる。
 プシュッ
 部屋のドアが開く音と共に、2人の人物が入って来た。
 事実上のネルフのトップ2人、ゲンドウと冬月である。
 シンジはそれをチラリと一瞥し一瞬忌々しげな顔になるが、すぐさま無表情になる。
 どうやら完全無視を決め込むようだ。
「再起動実験の準備はどうだ?」
 ゲンドウがリツコに問いかける。
「はい、間もなく準備が完了………いえ、今準備完了しました、レイ、零号機再起動実験、 準備はいい?」
『問題ありません』
 プラグ内のレイが抑揚のない声で答える。
「皆、準備はいいわね……」
 リツコがクルーに確認を取る。
「…これより零号機再起動実験を開始する、第1次接続開始」
 ゲンドウが言うと、クルーたちがにわかに慌しくなる。
「主電源コンタクト」
「稼動電圧臨界点を突破」
「フォーマットをフェイズ2へ移行」
「パイロットと零号機接続開始」
「シンクロ・スタート!」
 次々と報告が飛び交う。


『パイロットと零号機接続開始』
『シンクロ・スタート!』
 レイはプラグの中でクルーたちの報告を聞き流しながら、手もとに持ち込んだひび割れ た男物の眼鏡を見つめる。
 それはゲンドウがかつてレイを助け出す際に破損したもので、レイがゲンドウに頼んで 譲ってもらったものだ。
(…そう、わたしは大丈夫……)
 それは自分とあの人の……世界の絆の証。

 ガコンッ
 プラグのハッチが強制解除される
「レイ! 大丈夫かっ! レイっ!」
(・・・交換の必要があるほどの損傷はなし、だから、肯定・・・・・・・)
 頷く自分
「・・・そうか・・・・・・」
 消え入りそうな意識の中で見た、安堵の、笑み

(…わたしは、必要とされている、わたしは存在を許されている…………わたしは、愛さ れてる)
(ほんとう?)
 急にレイの頭に響く、それは拙く囁くような、だがはっきりとした言葉。
「誰?」
 レイはその声の主に呼びかける。
 急にレイの周囲が闇に包まれる。
 するとレイの前にボンヤリと、小さな影が浮かび上がる。
 白いスモックのようなものを着た、4歳くらいの幼女がレイの目の前に立っている。
 彼女に良く似た蒼い髪、赤い瞳。
 レイを10年ほど若返らせたらソックリだろう。
 その幼女が赤い風船の紐を右手に持ちながらレイを無表情に見つめている。
 その幼女が口を開く。
「ほんとうに、そうおもっているの?」
「……また、あなたなの」
 そう、レイは彼女を知っていた。かつての零号機起動実験の際、プラグ内のレイの前に もその幼女は現れていた。
「ほんとうに、ほんとうに、そうおもってる?」
「そうよ」
 レイの即答に、幼女はその薄い唇をツッと吊り上げ、目を細めてニタリと笑う。
 その口はまるで逆さの、血のしたたる三日月のようだ。
「…うそ、ほんとうはそんなことおもってないくせに」
「そんなこと…ない、わたしは必要とされてるもの。あの人がいるからわたしは生きてる の」
「ほんとう?ほんとうに“あなた”がひつようなの?」
「そう」
「うそ」
「うそじゃないわ」
「うそ」
「うそじゃないわ」
「うそ」
「うそじゃないわ」
「うそ」
「うそじゃないわ」
「でもうそなのに」
 クスクスと、蒼い髪の幼女が笑う。
「ほんとうは……わかっているくせに」
「うそじゃ…ない……」
 レイの顔が苦しげに歪む。
「でもうそ」
「ちが…う…」
 動揺・・・
「でもうそ」
「違う! うそなんかじゃない!」
 そして、激昂



「シンクロ拒絶!パルス逆流!」
「中枢神経素子にも拒絶が始まっています!」
 急に慌しくなるコントロールルーム。
 ただごとではない緊張感に包まれる。
「なんということだ、またなのか?」
 冬月が口を開く。
 ガラスの向こうでは、ギ…ギギと零号機がその腕を拘束から振り解こうともがき、頭を 苦しげに振り回している。
「なんてこと……どうして、どうして零号機はレイを……コンタクト停止!マヤ、6番まで の回路開いて」
 リツコがしばし呆然としながら、だがすぐさま指示を飛ばす。
「駄目です、信号拒絶!零号機制御不能!!」
「リツコっ!どうなってるの?」
 ミサトがリツコに問う。
「零号機がレイを拒絶、起動に失敗、つまり…暴走」
 それを聞いたミサトの脳裏を、何故か初号機の初戦の姿がよぎる。
「な…」
 ガラスの向こう、苦しげにもがく零号機を見つめるシンジ。
(あれが…暴走?)
 呆然となる。そして思う。
(エヴァって…一体なんなのさ?)
 本来ヒトの手ではどうすることもできない怪物を、騙し騙しヒトの支配下に置いている。
 何故かシンジにはそう思えた。


「ふふ…そうやってなにもみないで、なにもきかないでじぶんをまもるのね……」
 目の前で目を閉じ、耳を塞いで蹲るレイを冷ややかに見下ろしながら幼女が言う。
「……………」
「じゃあみててあげる、あなたのきずな。みててあげる、どれほどのものか」
「……………」
「……そろそろいかなきゃ、あぽりおんがにらんでる、あのひとがあぶないっておこって る」
 一瞬、ほんの一瞬、幼女が「あのひと」と言った瞬間、幼女は柔らかな笑みを浮かべた。
 しかしそれを見ることのできたはずの唯一の少女は目を閉じていた。
「……………」
「…じゃあね、ばいばい」
 レイの前から手を振りながら、すうと幼女が消えた。
 レイが目を開けると、そこは見なれたエントリープラグ内。
「…なんだったの?………」
 夢とも幻ともつかぬ体験に戸惑う。


「…パ、パルス急激に正常値へと回復します…」
「ハーモニクス、正常」
「シンクロ共に正常、絶対境界線突破まであと1.7…0.9…0.2」
「ボーダーラインクリア!零号機、起動しました!」
 わあっとコントロールルームが沸く。
 零号機が急にもがくのを止めるや否や、レイと零号機の状態が急激に正常なものに戻り 始めたのだ。
 クルーが見守る中、零号機は起動した。
「引き続き連動じっ……うおっ!」
 ゲンドウが実験継続をクルーに命じようとしたそのとき…
ズズズズズズ……………ン………
 ジオフロント、ネルフ本部施設が揺れた。
 なんの支えもないゲンドウが転び、実験に携わっていたクルーは座席にしがみつき、ミ サト、シンジは壁に手をつき体を支える。
「地震か!…しかし耐震設備は万全のはず……」
 かろうじて転ばなかった冬月が言った瞬間、第3実験場に呼び出し音が響き、すぐさま 本部内線の通話装置の子機を冬月が取る。
「何事だ!」
 子機の向こうからは、第1発令所に待機していた日向マコトの声。
『大変です!ジオフロント第37層にて高エネルギー反応と共にパターンブルーを検出、使 徒です!!』
「なんだと!使徒のジオフロント侵攻を許したのか!?」
 冬月の顔がはっきりわかるほど焦りに歪む。
『反応検出は第46工区、開発途中で何分センサーも……』
「言い訳はいい、エヴァの出撃準備だ、急げ!」
 言い放ち、子機を置く。
「碇、使徒の侵攻だ」
「ああ……総員第1警戒体勢へ移行、赤木博士、初号機の準備は?」
 体勢を立て直し、眼鏡を押さえながらゲンドウが焦りすら見せずに命令を下す。
 もっとも赤いサングラスに隠されて見えはしないが。
「380秒で準備できますわ」
 リツコが答える。
「零号機はこのまま使わないのかね?」
 冬月がゲンドウに訊く。
「…まだ起動したばかりだ、戦闘には耐えんよ、初号機を使う」
 それを聞いていたミサトが一瞬顔をゲンドウに見られぬように顰める。
(…シンジ君の扱いとはえらい違いね……)
「どうした?、さっさと行け、おまえの仕事だ」
 使徒接近の報にも大して動ぜず、ぼさっと壁に寄りかかるシンジに言い放つ。
 しかしシンジは壁に寄りかかったまま…
「…シンジ君、お願い、ケージへ」
 それを見ていたミサトがシンジに語りかける。
「わかりました…」
 ゲンドウをチラとも見ず、ミサトに言われてシンジは駆け出した。



 ジオフロントの縦穴を極太のワイヤーに左手で掴まりフックに片足をかけながら、パレ ットライフルを右手に初号機が降下して行く。
 その足元で次々に封鎖された隔壁が開いて行く。
『シンジ君、使徒のいる場所までマギが誘導します』
 発令所からリツコの通信が初号機プラグ内のシンジの元に届く。
『現在使徒が潜伏していると思われる第46工区はまだ建設途中で予備電源等の設備は未だ 整っていないわ、ケーブルが断線したらおしまい、だから今回は初号機に追加増量電池を 装備したわ』
 初号機の両肩パーツの後ろに縦長の追加パーツが付いているのがそうなのだろう。
『万一ケーブルが切れても12分間の戦闘行動が可能なはずよ』
「了解」
 リツコの説明にプラグ内のシンジが険しい顔で答える。


 シンジがマギの誘導に従ってジオフロント第37層に降り立ち、第46工区へ向けて初号 機を駆る。
 進むトンネルはエヴァがそのまま立って走れるほどの高さはなく、初号機はライフルを 腰だめに構えながら身を屈めて駆ける。
 ガシンガシンとエヴァの足音とズルズルとアンビリカルケーブルを引きずる音のみが響 く。


(この辺りだけど…)
 シンジはプラグ内のウインドウに出た使徒出現位置のマップと現在位置を確認する。
 そこは剥き出しの岩盤に覆われた、エヴァが立って活動しても何ら支障はないくらいの かなり高く広大な空間だった。
 照明設備も整っておらず、空間の上層をケーブルがそのまま這いまわり、取り付けられ たライトに電力を供給している。
 パワーショベルなどの作業機械もそのままだ。
ズズズズズズズズンンンンンンン…………
 再びジオフロントが揺れ、初号機は危うく転びそうになるが、なんとか体勢を整える。
(どこだろ?……)
 シンジはエヴァの動体センサーを見るが、反応は見えない。
ズズズズズズズウウウウンンンンン……………
 また揺れる。先ほどよりも揺れは激しい。
(近い、はずだよな?)
 初号機はキョロキョロと周囲を見渡す。
「ミサトさん、そっちはどうですか?」
 シンジが発令所に呼びかける。
『近いわ、すぐそばのはずなんだけど…変ねえ、初号機のそばでATフィールドの反応は 出てるのに…とにかく近いわ、気をつけて』
「はい」
 そろりそろりとこの広大な空間の壁面を背に、周囲を探る初号機だが…
『…使徒、動きました!初号機の真後ろです!』
『シンジ君、避けて!!』
 発令所のマコトの報告とミサトの叫びがシンジの元に届く。
 しかし……………
ガゴオッ!ドガガガガッ!
ゴオン!

「うわあっ!」
 発令所からの通信とほぼ同時に初号機背後の岩盤が崩れ、初号機は猛烈な衝撃を背中に 食らって前方に吹き飛ばされる。
「くっ」
 初号機はうつ伏せに倒れ、シンジはフィードバックしてきたその衝撃に一瞬気が遠くな りかけるが、すぐさまそのままの体勢で使徒に背中を向け続ける危険を感じ、無我夢中で 倒れたまま横に転がる。
ドシュッ!
 一瞬遅れて、丁度初号機の頭部があった地面に光の槍が突き立ち、すぐに引き戻される。
 シンジはすぐさま体勢を立て直し、片膝をついてライフルを構えて使徒と向き合う。
(こいつが…)
 壁面に空いた大穴から、グネグネと黒い、甲殻類のような節のある外骨格を纏った巨大 な長虫が這い出てきた。
 その頭部らしき先端部分にはポッカリ一つ穴が空き、そこが微弱に発光していることか ら、おそらくそこから先ほどの光の槍を出したのだろうとわかる。



 こちらは第3実験場から急遽移動してきたネルフ面々のいる第1発令所。
 前方の主モニターには初号機からの使徒の映像が大映しになっている。
「…近頃の地震、こいつが地中を掘り進んで来たのが原因ね…、ということは先の使徒と 同時にここへ向けて侵攻していたの?」
 リツコが使徒の映像を見ながら言う。
「あれが今度の使徒か…あの口みたいなのから出る第3使徒と同じような光の槍が武器み たいね?シンジ君、様子を見るわ、敵ATフィールドを中和しつつパレットライフル一斉 射!」
 ミサトがシンジに指示を出す。



ドガガガガガガガガガガガガガガ!
 シンジはミサトの指示通りに使徒の姿がサイトに入った瞬間引き金を引いたが、野外で ない限定された空間なために爆煙ですぐに使徒の姿が見えなくなる。
 おまけにシンジには、使徒のATフィールドが中和できていないことが“みえて”いた。
 これはシンジがエヴァに乗って獲得した奇妙な感覚の一つなのだが、エヴァを通して使 徒を見るとき、その使徒を覆うATフィールドが視覚的な映像ではなしにわかるのだ。
 かつてリツコにそれについて相談してもはっきりとした答えが返ってきたわけでもなく、 何故かと問われて答えられるものではないようだが、この感覚のおかげで敵ATフィール ドの存在と位置、強度を感じ取り、その中和が可能となる。
(……この距離じゃ…ダメだ…)
 今回の使徒のATフィールドは決して大きなものではないが、かなり強力なものがその 体表を覆っている。
(もっと近づかないと…中和できない)
『バカっ、爆煙で見えない!』
 プラグ内にミサトの声が響く。
 敵のATフィールドのことも良くわかっていないで指示を出し、そんなことを言うミサ トにシンジはカチンと来る。
「バカバカ言うなよ!敵のことがわからないんだったらデコイくらい出して様子見くらい してよ!」
シュンッ!
   そんなことを言っていると、煙の向こうから光の槍が発射される。
「くそっ」
 狙い違わず初号機の頭部に向かって来たそれを間一髪で避けるが、初号機の左頬の装甲 が若干削れる。
ドシュ
 光の槍が初号機横の壁面に突き立った瞬間
 プツン………………
 第46工区のライトが全て消えた。


 初号機プラグ内モニターが真っ黒に闇に覆われる。
「ミサトさん!何も見えません!」
 すぐそばに使徒がいるのに急に視界を失いシンジはパニック気味に声を上げる。



「第46工区照明ケーブル断線!」
 発令所にマコトの報告が響く。
「落ち着いてシンジ君、すぐに暗視モードに移るわ」
 リツコがプラグ内のシンジに告げる。
「復旧までどれくらい?」
「…予備回線へ移行して…後26分はかかります」
 ミサトの問いにマコトが答える。



ドシュッ
 繰り出される光の槍。
「くっ」
ズガアアアアン!
 間一髪で避ける初号機、元居た場所を槍が穿つ。
 エヴァのセンサーが暗視モードになり、映像がクリアになったのはいいが、使徒が次々 に繰り出す光の槍に翻弄される初号機。
 時折ライフルで攻撃するも、使徒のATフィールド中和可能な距離まで近づけないため に牽制程度にしかならない。
 使徒の繰り出す光の槍が思いのほか攻撃レンジが長く、おまけに攻撃間隔が短いのだ。
 しかも第3新東京市直上のように迎撃設備も何もない、限定された空間だ。
(…どうしたらいいんだ?このままじゃ埒が開かないよ……)
 徐々に壁際に追い詰められる初号機。
「ミサトさん、この距離じゃATフィールドの中和はできないしライフル効きませんよ、 どうしたら……うわあっ!」
『シンジ君!』
 ミサトが発令所で叫ぶ。
 使徒が突然猛烈な体当たりをかましてきた。避けきれずに吹き飛ばされる初号機。間髪 入れず光の槍が襲いかかる。
 再び横に転がって避ける初号機。
 しかし………
 バツン! バチバチ……



「使徒の攻撃によりアンビリカルケーブル断線!初号機活動限界まで後12分を切りまし た!!」
 発令所にマヤの報告が響く。
『ミ……ザザザザザ…が………』
 シンジの声にノイズが混じり、主モニターの初号機の画像が急に乱れる。
 アンビリカルケーブルを介して為されていた通信が断たれたのだ。
「まずいわね、使徒のATフィールドで通信が遮断されかけてる」
(強力なATフィールド…元はあの使徒でなくて地下のアレね…)
 リツコが胸のうちの呟きを隠して説明する。
 それを見たミサトは険しい顔で後ろを振り仰ぐ。
(まずいわね、このままじゃ……)
「司令! 作戦部より正式に要請します。零号機の出撃許可を!」


「碇…このままでは」
 発令所司令席に座すゲンドウの傍らで、冬月が囁くように言う。
「…ああ、ドグマに近すぎる、接触されれば全てが水の泡だ」
 答えるゲンドウ、そこにミサトの要請の声が届いた。
 キイと音を立てて席より立ちあがるゲンドウ。
「エヴァンゲリオン零号機、出撃準備」
 発令所にゲンドウの重く低い声がとどろき、慌しくなる発令所。
 言うとゲンドウは再び座し、現在ケージに移された零号機内で待機中のレイに通信回線 を開く。
「…使徒殲滅、やれるな、レイ」
『はい』
 通信を介してレイの呟くような答えが返る。



「後、5分切ったか……」
 プラグ内に表示された活動限界までのタイムを見てシンジが呟く。
「ハア、ハア、ハア……」
 息が荒く、疲労の色が濃い。
(どうすれば、いい?)
 初号機はライフルを腰だめに構えて立っているが、各所の装甲が削れ、左肩のパーツな どは半ばからもがれて満身創痍。
 互いに決定打を欠いた戦い、しかしもうすぐ初号機も活動限界だ。
 しかも先ほどアンビリカルケーブルを断たれてから、発令所との通信も断たれている。
(退却、するか?)
 使徒はゆうらりとポッカリ穴の空いた頭部?をもたげ、初号機に向く。
(ん?)
 それを見て怪訝に思うシンジ。
 そしてムクムクと頭部の穴のすぐ下部が膨らみ出す。
(なんだろう?)
 シンジはライフルの照準を使徒の頭部に向けるが……
ブシュウウウウウウウ!!
「うわっ!」
 使徒の頭部の穴から凄まじい勢いで放出される透明な液体、まるでジェット水流のよう なその奔流を正面から受けて、初号機は壁面に叩きつけられる。
 すぐさま体勢を整えようとするが……
「え?なんで動かないんだ!?」
 手足はギシギシと音を立てて蠢くのだが、初号機は壁に貼りつけられたまま動かない。
 シンジの体にもフィードバックしてくる抵抗感。
「これは…」
 初号機の体を観察すると、先ほど使徒の放った液体が初号機の全身にまとわりつき、硬 化して壁面に初号機を接着してその動きを封じている。
「くっそお……」
 ののしりながら初号機の全身に力を込め、その束縛から逃れようと足掻く。
 ベキベキと音を立てて硬化した液体がはがれ、なんとか上半身は自由を取り戻したが
ギッギッギッギ……
 そんな初号機の姿をあざ笑うかのような音を出し、使徒が鎌首? をもたげて頭部の穴を 発光させる。
 あの光の槍の矛先が、偶然か初号機の頚部、エントリープラグの位置に向けられる。
 プラグ内でそれを見るシンジの全身にジワリと嫌な汗が流れる。
(…間に合わない、か……)
 初号機の下半身は動きを封じられたままだ。初号機のパワーでその束縛を引き剥がすこ とはできなくもないようだが、それをしている途中で確実に槍に貫かれるだろう。
 矛先の光が徐々に強くなる。
(ここまでか…ここに来て信じられないようなことばかりだった…僕の一生ってなんだっ たんだろ?)
 シンジが襲いくる死の苦痛の予感にプラグ内で目を閉じたその時
 ガガン!
 バシュ
(え?)
 シンジには聞き慣れたパレットライフルの着弾音と共に、使徒の光の槍は初号機の首を やや左に逸れた位置に突き立つ。
 シンジが目を開けると、プラグ内に新たなウインドウが開き、EVA−00の文字と共にそ こに使徒を睨み据える白い少女が映っている。
「…綾波さん…零号機!」
 初号機から見て使徒の向こう側、パレットライフルを構えた一つ目センサーアイ、イエ ローのカラーリングの機体、エヴァ零号機が立っていた。
 使徒は槍を引きぬくと、今度はグルリと後ろに向き直り、うざったい紫色したヤツの始 末を邪魔したヤツに向かって這い出す。
ガガガン、ガガガン、ガガガン…
 正確無比の3点バーストで零号機は接近する使徒を撃つ。
 しかし使徒にはこたえない。
「だめだ綾波さん!その距離じゃATフィールドは中和できない……」
 シンジが通信回線を零号機に開けて言う。シンジは初号機の下半身の束縛をなんとか解 除しようと足掻く、なんとか背中と右足も自由になったが、地面の亀裂にはまり込んだの か、左足のみが足首まで埋まって固定されて動けない。
 それでも射撃を止めない零号機に、使徒が体当たりする。
ドガアン!
 まだ起動したばかりでパイロットとの調整もまだなのだろう、反応が鈍く避けきれずに 後方に吹き飛ばされる零号機、あお向けになって倒れたその体を立ち上がらせた瞬間、そ の足場が陥没して下半身が埋まってしまう。
 なんとか這い上がろうとする零号機に接近した使徒の頭部下部が、またムクムクと膨ら み出す。
(またあの接着剤か!)
「綾波さん、よけてっ!!」
 零号機のレイに向かって叫ぶシンジだが…
ブシュウウウウウウウ!
 零号機は液体をモロに浴び、完全にその下半身を埋まったまま固められてしまう。
 かろうじてその両腕は健在だ、ライフルも手放さず、なお果敢に使徒を撃つ。
 しかし効かない。
ギッギッギギギギギギ……
 使徒が頭部の穴を発光させ、光の矛先を零号機の頚部に向ける。


(…初号機との戦闘映像から判断するに、これは使徒の光の槍による攻撃)
 レイは待機中に零号機内で見た初号機とこの使徒の戦闘場面を想起し、今の零号機と自 分の状態を冷静に分析する。
(…零号機下半身は使徒の硬化溶液によって稼動不能、現在の状態を打開する手段はない わ……最優先事項は使徒の殲滅、ならば……)
 使徒の光の槍の矛先が光を強める。
「…碇君、今アンビリカルケーブルをそちらに投げます、使徒殲滅を続行して」
 パシュッと音を立てて零号機背部のアンビリカルケーブルが解除され、それを零号機が さっきまでライフルを支えていた左手で掴み、初号機に向かって投げようとした。
(私は死んでも次がいるもの……)


 下半身を埋めた零号機に使徒の光の槍の矛先が向く。
『…碇君、今アンビリカルケーブルをそちらに投げます、使徒殲滅を続行して』
 レイの、とても死に際しているとは思えぬ冷静な声と共に、零号機が己のアンビリカル ケーブルを掴んで初号機に投げようとしている。
 シンジにはわかった。
 レイが死を覚悟し、電源ケーブルを初号機に託そうとしていることが。
 その瞬間、シンジはまだ手にしていたライフルの銃口を初号機の左足首に向け、迷わず 引き金を引いた。
ガガガン!
バシュウウウウウ……
 劣化ウラン弾が初号機の左足首を粉砕し、そこから大量の赤い血の如きエヴァの体液が 噴出する。
「くうっ…」
 プラグ内のシンジの顔が苦痛に歪む。
 初号機からのフィードバックによる左足の喪失感と、そのすぐ後に襲いかかって来た激 痛に一瞬気が遠くなるがギリリと歯を食いしばって耐えると、自由になった初号機で、す ぐさま右足一本で使徒に向かって跳躍する。
 使徒の光の槍の矛先が光を強め、零号機の頚部を貫こうと放たれた瞬間、使徒に組みつ いた。
シュンッ
 間一髪、光の槍は零号機を逸れてあさっての方角へ突き進み壁面に突き刺さる。
(この距離なら!)
 シンジは初号機のATフィールドを全開にし、使徒のそれを中和する。
「このおおおおおおおっ!」
 シンジが苦痛を打ち消すかのごとく叫び、ライフルを手放して右肩パーツからプログナ イフを右手に装備し、使徒の頭部とおぼしき部分の甲殻を割って突き立てる。
ギギギギギイイイイイイイイッ!
 使徒は苦痛にうめくかのような音を立て、初号機に組みつかれたままその長い体でのた 打ち回る。
ガンッ!
「くっ」
ドガアッ!
「ぐあ」
 暴れまわる使徒に振りまわされ、初号機が壁面、天井に叩き付けられる度にシンジが苦 痛の声を上げる。
 初号機活動限界まで後残り1分38秒。
 しかし初号機は使徒に組みついたまま、割った甲殻の亀裂をプログナイフで抉り、少し でもダメージを与えようとナイフを持たない左手の指を亀裂に突っ込んで亀裂を押し広げ る。
『あ…や…なみ、さん、いま…なら…A……ルド、中和……るか、ら……』
 零号機のレイに、初号機から途切れ途切れののシンジの言葉が届く。
 今なら使徒のATフィールドは中和されている。
 レイはすぐにシンジの言わんとしていることを読み取り、左手に掴んだアンビリカルケ ーブルを再び背部に接続してライフルを使徒に向けて構える。
(…初号機活動限界まで後53秒、使徒殲滅は最優先事項、今が、好機)
 初号機が使徒に組みつきATフィールドを中和しているが、使徒は未だ暴れまわってい る。
 初号機活動限界までもう1分を切っていることは零号機からもモニターされている。
(…このままでは…初号機に当たる……)
 しかし状況を冷静に分析しながらも、ライフルの銃口はまだ揺れている。
(…迷っているの?わたし?…)
 その時、初号機の抉る亀裂から、赤い輝きが漏れて見えた。
(あれは、コア?)
『綾波さんっ、撃って! 早く!』
 シンジの叱咤するような声が零号機のレイの元に響く。
 レイは一瞬の躊躇の後、束の間見えた赤い輝きに向けて引き金を引いた。



「まったく…毎度毎度盛大に壊してくれて、直す方の身にもなって欲しいわ…」
 零号機によって地下から運ばれ、ケージに固定され冷却プールに浸かったボロボロの初 号機の頭を見上げながらリツコが溜息混じりに言う。
「最初っから零号機も出せてたら、もうちょっとはマシな戦いして見せたわよ」
 その横でミサトが同じように初号機を見上げている。
「…そうね」
 一瞬リツコが眉をひそめるが、ミサトは気づかない。
「でもこれで零号機も投入できる、少しはシンジ君の負担も減るわ……で、どうなのシン ジ君?」
「彼の脳がエヴァからフィードバックしてきた左足切断の情報をシンジ君自身のものと認 識してしまって、彼の意識を苦痛から守るためにシャットダウン、外傷は全くないのだか ら安静にしていれば何も問題はないわ、今は病室で寝てるはずよ」



 シンジが目を開けると、赤く染まった白い白い天井が目に入った。
 前にも一度来たような気がする。
(ここは……あの時の、病室?)
 ベッドに横たわったシンジは目だけで周囲を見渡す。
 白い白い部屋、かつてエヴァに乗って意識を失い、気がつくと自分のいた場所だ。
(また来たのか、ここに…)
 首を曲げて開いた窓の外を見ると、ジオフロントの空は赤く染まっていた。
 ジオフロントも第3新東京市地上から太陽の光を取り込んでいるため、地上で日が沈め ばジオフロントも夜になるし、日が暮れれば夕方になる。
 窓から射し込む夕暮れの赤い光に包まれた病室は、かつて感じた無機質なモノトーンの 印象から様変わりし、自然の暖かな印象をシンジに与え、シンジは少しだけ心が安らぐ。
(あっ…そうだ!)
 夕暮れの病室に少しだけ安らぐシンジの脳裏を使徒との戦いがよぎり、焦ったシンジは ガバっと上半身を起こすが、気がついたようにすぐにまたベッドに横になる。
(そうだ…あの時綾波さんが使徒のコアを撃ち抜いて……)
 偶然なのか?初号機が組みつきナイフで抉っていた部分に使徒のコアがあり、レイの零 号機がそこを正確にライフルで撃ち抜きコアを破壊、使徒は沈黙。
 それを見届けたシンジは、疲労と足から血液が大量に流れ出る感覚と鈍い痛みに気を失 った。
(なんとかやっつけたんだ……ん?)
 プシュっという音と共に、シンジの病室のドアが開く。
(誰だろ、検査かな?お見舞いに来てくれる人なんか……え?)
 以外な来客に驚くシンジ。
 目を向けると、開いたドアから現れたのは、シンジがまず有り得ないと思っていた少女。  射し込む夕陽にその蒼い髪が照らされ、夕陽以上に赤いその瞳も相俟ってなんとも幻想 的な雰囲気を出している。
 プラグスーツから一中制服姿に着替えた綾波レイである。
 レイはそのままスタスタとシンジのベッドに歩み寄ってくる。
 ベッドからレイを見上げる形になるシンジ。
「………………」
「………………」
 レイを見上げるシンジと、シンジを見下ろすレイ。
(どうしたんだろ?)
 いつも何の感情も感じさせない無表情なその瞳の奥が、揺れている、そんな気がした。
 カナカナカナカナカナカナカナカナ………………
 ホーシツクツク……ホーシツクツク……………
 開いた窓からセミの声が響く。
 どのくらいそうしていたのだろうか、訪れた者が用件を言うべきなのだと悟ったのだろ うか、沈黙を先に破ったのはレイだった。
「……どうして?」
「?」
「…どうして、あの時、アンビリカルケーブルを受け取らなかったの?」
 レイがシンジの黒い瞳を見ながら問う。
(あれ…綾波さん……)
 シンジはつとレイから目を逸らし、赤く照らされた白い天井を見上げながらしばらく思案すると、口を開いた。
「……わからない………」
「……」
「…わからないんだ、あの時、綾波さんが死ぬ気だって思ったら、体が勝手に動いてた…」
「………そう」
「………」
「………」
「…ねえ、綾波さん、気づいてる?」
「…何?」
 訊き返すレイに視線を戻しながら、シンジは表情を幾分柔らかくして答える。
「…綾波さん、今、すごく必死な顔してるよ?」
 シンジに言われ、レイは驚きに目を見開き、顔に手を当て病室に備え付けられた鏡を覗 き込む。
「あ……」
 確かにそこには、瞳の奥を何かで揺らし、何かにせかされたような少女の戸惑った顔が あった。
 そこにあるのは好奇心。
 それはかつてイヴを禁断の果実に触れさせ、パンドラに箱を開けさせた「知りたい」と いう思い。
 赤い夕陽の射し込むこの部屋でもわかるくらいに、かあっと少女の頬が朱に染まる。
「さ…さよなら……」
 小さな声でどもりながら、熱を冷ますかのように片手を頬に当て、身を翻すとレイはぱ たぱたとシンジの病室から駆け出して行った。
「……ふう」
 そんなレイを見送り、シンジはほっと溜息をつくと、両手を頭の後ろで組んで天井を見 上げ、自嘲するようにふっと笑って呟く。
「…わからないよ、僕にだって……」


〈続く〉



予告


 第3新東京市に、これまでにない強力なATフィールドと加粒子砲を備えた使徒が飛来 する。
 接近戦不可能の状態でミサトは使徒への超長距離射撃“ヤシマ作戦”を立案・指揮する が…
 月明かりの下、少年は少女に願う。それはそれはちっぽけな、お願い

   次回 Evangelion Sword & Grail 第5話 「おねがい」

第5話を読む


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