Evangelion Sword & Grail




ざざ………ん……
 周囲に遮るものもなく闇に塗り篭められた世界。響くのはゆるやかな水音。新月の海原 を星明りだけがかすかに照らし、水界との境界をかろうじて浮かび上がらせる。
 ゆるゆるゆれる夜の海は、地上のいかなる闇よりも深く、暗い。

 セカンドインパクトによって浜も港も灯台までも破壊され尽くし、再建の目処などロク に立っていない現在、かつて…と言ってもつい十数年前までは、漁船が晧晧とライトを照 らし、網を投げる姿が見られたものだ。
 しかし今はボート一隻見当たらない。

 西暦2015年、日本の漁業自体がその90%以上を養殖に依存していた。15年前、多くの 街と共に人々が海の底に沈んだ。生き延びた人々には未だその記憶が生々しく残っている。

 誰も自分の親族・身内の肉を食んだかもしれない魚やエビ・カニを食べたくはない。

ごぽん……
 暗く波打つ海面に大きな泡が1つだけ浮かんで、弾けた。
 その周囲だけが星の光を呑み込み照り返さず、タールが滲んだように黒い。

ごぽ…ごぽん……
 1つ、2つと泡が増えては弾け、滲む黒が徐々に大きさを増して行く…




 帰宅する者、友と寄り道の算段をする者、部活に行く者などなど、制服姿や運動着姿の 少年少女たちでにぎわしい一中放課後の喧騒の中、少女の白い繊手が下駄箱の扉を上に開 けた。

ばさばさばさ!
 盛大な紙擦れの音を立てながら、ピンクやらブルーやら色とりどりの封書が大量にその 少女の足元にばら撒かれる。中には丁寧にラッピングされ、リボンのかけられた小さな箱 などもある。
 しかし少女はそんなものには見向きもせず、ばら撒かれたその上に何の躊躇いも容赦も なく革靴を揃えて置いた。
 重力に従い、下駄箱の扉がパタンと閉まる。扉正面に大きく書かれた名前は“惣流・ア スカ・ラングレー”。
 靴を置くためかがんだ身を起こしながら、アスカは顔の前に下りた赤い髪を手で後ろへ かき上げた。よく澄み渡った湖水のごとき青の双眸は、常に何か見えない敵を前にしてい るかのように、強い光を放つ。
「アスカあ、いつものコトだけど大量だネー… よっト」
 アスカの隣にヒルダが立ち、よっこらと自分の学生カバンを落とさないように器用に膝 を使いながら開け、中から折りたたんだ手提げ紙袋を取り出した。
「まったく! こっちにとってはうざったいだけだってのがわかんないのかしらねー」
 アスカは足を靴に通してトントンと踏み鳴らし、履き心地を整えながら
「ヒルダ、アンタも律儀ねえ… そんなの相手にしないでほっとけばいーじゃない?」
 呆れたような眼差しでヒルダを見遣る。片足でぱっぱと色とりどりのラヴレターやらプ レゼントやらを1箇所に掻き寄せながら。一応アスカ、後で掃除する者のことも考えては いるようだ。
 赤山羊もとい赤毛の少女は自分宛ての恋文などは読まずに食べずに掃除当番にまかせる。
「ボクだってミーンナ相手にしてるワケじゃないヨ」
 紙袋を広げ、その口を自分の下駄箱の下に当てながらヒルダは扉を開く。
 ばさばさと、アスカに勝るとも劣らない量のラヴレターとプレゼントが紙袋の中に落ち た。紙袋は何かと気のつくヒルダなりの、散らかさないための配慮。
「…けどサ、同じ捨てるにしたっテ、くれたヒトの目の届かないトコの方がいいじゃナイ」
 ヒルダがその翠の目を、ほんの少し申しわけなさそうに伏せながら言った。
「直接アタシらに顔も見せらんないような連中に、気い遣う必要なんてないわよ。どーせ 外面に引っかかってきたバカばっかでしょ!」
 ふん! とアスカは腕組み形の良い鼻を鳴らす。
「じゃあサ、直接コクハクされたラ、オッケーなワケ?」
 ヒルダが耳ざとく、にっと目元に笑みをにじませ悪戯っぽい口調で訊いた。
 その時心なしか、ヒルダのその問いに周囲の喧騒がやや静まった。
 玄関に居合わせた多くの男子生徒たちが、さりげなさを装いながら耳をそばだたせたた めである。
「ジョーダン! ガキなんか相手にしてらんないわよ。ガキなんか」
 そんなアスカの無情なセリフに、膝を折って崩れる男子多数、なんとかこれから“オト ナの男”を演出しようと頭をひねり出す男子多数。
「やっぱり加持さんくらいじゃなきゃあ……」
 突如アスカは胸元で両手を握り、夢見るような様子で目を閉じる。それまでのつんけん した雰囲気とは打って変わってすっかり“恋する乙女”だ。
「アスカってサー、オジさん好みなノ?」
 そりゃあヒルダもドイツから日本まで護衛してきてもらって、それなりに魅力的な男の ひとなんだろーなーくらいには思っていたが、恋愛の対象となるとどうだろう?
「オトナの魅力よ、オトナの魅力! ヒルダにはまだわかんないかもねー♪」
 ふふん♪ と今度は妙にご機嫌だ。
「ふーン」
 ハイハイとヒルダは生返事する。
「……ってところで、ファーストにサードにフォースは?」
 アスカは真顔に戻ると、ヒルダに向き直り辺りを見渡す。

 チルドレン5人、上司であるミサトより、学校からネルフへ向かう際はなるたけ団体で 行動するよう指示されていた。単純に固まっていてくれる方が警備に割く人間も少なくて 済むからというのが表向きの理由。しかし国連直属の特務機関にして人類防衛の最前線、 そんなコトで人件費をケチるわけもなし。ケチったせいでチルドレンを万一失い、人類生 存の確率を下げるようなマネになれば元も子もない。
 少しでも訓練や実験以外の時間も共有してもらい、バラバラでまとまりのない彼らに、 なんとか信頼関係を醸成してもらいたいというのがミサトの本音であった。
 更に本音を付け加えるならば、特にセカンドチルドレンとフォースチルドレンの信頼関 係を、ということになるのだが。

 それが戦場に立つ子どもたち自身の生存率の向上に繋がるはずだから。  ひいては人類の生存にも……

 そしてアスカ、口では言わぬが高いパイロット能力と元来の前に出る性格からか、先の 戦いよりチルドレンのリーダーをもって自認している。
 5人もいれば誰かが司令塔になる方がエヴァ同士の連携にも効率的だ、という考えに基 づき、ならば「アンタたちなんかに任せておけない!」というのがその理由。
 トウジが聞けば「んなもん誰も認めてないわい」と言ったであろうが…

「…何?」
 突如そんなアスカの後ろから聞こえて来たのは、少女の起伏の乏しい平板な声。
「わっ!」
 何の気配も感じさせず背後ごく間近から聞こえてきたその声に驚き、アスカはカバンを 取り落としそうになってわたわたと慌てる。
 振り返れば声の主、レイが既に靴を履き替え佇んでいた。
 ミサトから先だって、チルドレンはなるべく集団でネルフへ向かうように指示されていたためである。


「葛城一尉、それは命令ですか?」
「ま、そー受けとってくれてもいいわ」
 ミサトとのやり取りもこのようなものであったから、レイは依頼というよりは命令と認 識しているのかもしれない。律儀に集団出勤(?)を守っていた。


「…っととと、ファースト! ビックリさせんじゃないわよっ!」
 アスカはそのままなんとかカバンを持ち直して振り向くや言い放った。驚愕の声を上げ てしまった気恥ずかしさも手伝い、怒鳴るような調子で。
「……」
 一方アスカを見るレイの赤い瞳には、取りたてて何の感情も浮かんでいないように見え る。
「そう言えバ、シンジクンにトウジクン、いないねエ……」
 ヒルダもキョロキョロと見まわす。いつもなら共にネルフ本部へ向かう、残りの少年2 人の姿がない。
「レイサン、わかル?」
 いつものレイの調子から、訊いても無駄かと思いつつも、ものは試しと訊いてみた。
「……HR後、碇くんは即座に2−A教室を退出。その約6秒後にフォースチルドレンが もう1人の男子生徒と共に退出したわ…」
 問われたレイが、チラと周囲に視線のみを動かしながら淡々と事実を告げる。
(あ、答えてくれタ…)
 答えをあまり期待していなかったヒルダは、妙に詳細なレイの答えにちょっと驚き目を パチクリさせる。
 全くの他人のみならず、同僚である他のチルドレンにすら必要最小限な対応しかしない 普段のレイの様子から考えると、少し意外な感じがする。
「先に行ったのカナ?」
「ったく、団体行動とるように言われてんのにアイツら…」
 思い通りにならないせいか、アスカはちょっとだけ眉根を寄せながら
「しょーがないわ、アタシたちも行きましょ。アイツらだってガキじゃないんだし、勝手 に行くでしょ!」
 言うやさっさと玄関口に向かって歩き出した。



「アレ? あれっテ、トウジクンにケンスケクンじゃなイ?」
 アスカ、レイと共に玄関口を出て、何気なく左方を見たヒルダの翠の目に、見なれたブ ラックジャージの後姿と、しゃがんだメガネの少年の背中が飛び込んできた。
 ヒルダに言われてアスカが見れば、裏庭に続く校舎の曲がり角で、ジャージのフォース ことトウジと、トウジといつもつるんでいるカメラメガネの少年・ケンスケが何やら角の 向こう・裏庭方面を伺っている。
 腰をかがめ、角からこそこそ裏庭を伺う所作がどうにもあやしい。
「何やってんのよ? アイツら?」
 怪訝な顔をしてつかつかと、アスカがトウジとケンスケに近寄って行く。
「あ、待ってヨ、アスカ」
「………」
 ヒルダがアスカの後を追い、その後をレイが無言でついて行った。



「何やってんのよアンタたち?」
 アスカに言われた途端、トウジとケンスケの背中が目に見えてビクリとする。
「フォース、別に知ったコトじゃないけど早く行かないとテストに遅れるわよ! それに サードはどー……」
 アスカがトウジに言いかけた途端
「しーーーーーー………」
 トウジが振り向き、右手の人差し指を口元に当てた。
 「静かにして!」のジェスチュアである。
「な…何よ?」
 普段見られぬ妙に真面目な顔のトウジに、アスカが珍しく気圧される。
「だーっとれ惣流」
 トウジは言ってすぐまた裏庭を伺う姿勢に戻る。
 どうやら裏庭で何か行われているらしい。
「どうしたノ?」
 訓練でもあまり見られぬトウジの真剣な様子に、ヒルダも何やら興味を引かれ小声で訊 いてみた。
「ヒルダはん。今えーとこなんや……」
 ちょっとだけ振りかえってトウジが答えるが、すぐに視線を裏庭に戻す。
 何が「えーとこ」なのだろう?
 トウジの仕草がちくちく少女たちの好奇心を刺激する。
「ワイもすぐ行くさかい、先に行っとってかまへんで…」
 アスカらの方を見向きもせず、トウジは後ろ手にぱっぱと「あっちいって」のジェスチ ュアをした。
(なんかむかつくわねー。一体なによ?)
 トウジの「オマエには関係あらへん、はよいけ」的態度にムッとしつつ、自分の知らな いところで何か面白いコトが行われていると勘づいたアスカが、トウジの背中を強引に押 し退け角の向こうを見ようとする。
「何隠してんのよ? 見せなさいよ!」
「うおっ! 何すんのやそーりゅー」
「なにナニ? ボクにも見せてヨ…」
 ヒルダも好奇心が勝った。
「…いいけど静かにしてくれよー」
 かがんで角からカメラのレンズを出して“その光景”の撮影を続けるケンスケが小声で 答えた。
 アスカとヒルダが、下からケンスケ、トウジの順でかがんだ2人の少年の上から裏庭を 覗き込む。
 そこにいたのは…
「サード? アイツ何やってんのよこんなトコで?」
「あ、シンジクンだ。…でもあそこにいる子、ダレ?」
 夏の気候でも長袖姿なエヴァ初号機パイロット・碇シンジ。そしてシンジと向き合うポ ニーテールの少女。元々小柄なシンジよりも少女はちょっとだけ背が高い。健康的に日焼 けしたところが闊達そうで魅力的な、結構な美少女である。
「ああ、女の方は2−Bの坂下ミズキ。女子バスケ部所属。惣流とヴァルトラウテが来る 前は、一中美少女ランキング上位を常にキープ……」
 ここぞとばかりにケンスケがすかさず解説するのだが
「そんなコト誰もきーちゃいないわよ……ってまさか」
 ふとアスカ、以前漢字の勉強にと読んだ日本の少女マンガを思い出す。
 人気のない校舎裏。向き合う少年少女。少女・ミズキは手を後ろで組んで俯き加減にシ ンジの方を伺い、シンジはシンジで視線をどこへやったものか、戸惑いの表情を見せなが ら所在なげにしている。
 欧米ではどうだか知らぬが、日本の学校でこの図式の意味するものは…
「うわー…シンジクン、もしかして愛のコクハクされてるノ?」
 ヒルダがアスカと同じものに思い当たって目を丸くする。
「はっきり言うのー、ヒルダはん。ま、そーいうこっちゃ」
 トウジが楽しげに答えた。
「アンタたち……趣味悪いわねー やってんの覗きよ覗き!」
 言いながらも、その目は向き合うシンジとミズキをしっかり捉えているアスカ。口調は 明らかに面白がっている。なんだかんだオトナぶっても色恋沙汰には興味の尽きないお年 頃。それが他人のものならなおさらだ。
「へー… シンジクンもてるんだア…」
 ヒルダも感心しながらしっかり見てる。
「そやでー。意外やろ?」
 トウジもニヤニヤしながら見ている。
「…オレの顧客データから、なぜか女子体育会に集中して、な」
(しかもレベル高い子ばかり… なぜだあーっ!)
 ケンスケが心の叫びをあげるが、きっと誰の心にも届かないのだろう。
 それでもそんな叫びは一時括弧にくくり、金になるかもしれぬと撮影してしまう商魂に ケンスケ自身哀しくなる。
「あんなナヨッとした感じのヤツがあ? 信じらんないわ」
 馬鹿にした風に言いながらも、アスカはかつて見たシンジの乱闘を思い出す。
(あんなキレたヤツのどこが…)
 血を浴び、鈍色に曇った少年の目の奥には、闇。
「あー…でもなんとなくわかるかナア……」
 ヒルダが今気づいたとばかりに言いかけると
「お? 動きよったで!」
 トウジが角からちょっと身を乗り出した。
 見れば少女・ミズキが意を決したように顔を上げ、真剣な面持ちでシンジに向かって何 かを言っている。
「こっからじゃ声聞こえないじゃないのよ! どーにかならないわけ?」
 なんだかんだ言っても興味津々なアスカの目は、シンジたちから離れない。
 しかしさほど離れていないにもかかわらず、シンジたちが何を話しているのかまでは彼 らのいるところまで届いて来ない。
「風向きが悪いんだからしょーがないさ」
 ケンスケがファインダーを覗きながらやれやれと答えた。
 風のおかげでさっきからとりわけでかい声で話しているアスカやトウジの声も、シンジ たちに届いてないわけでもあるが。

 そしてそんな風になんやかんやと言いながら、トウジ、ケンスケ、アスカ、ヒルダの4 人は、目の前で繰り広げられる少年少女恋愛模様の光景に集中していたために気づかなか った。
 4人の横を、その光景に向かって白い影がすうっと歩み過ぎて行ったことを…

 少女の訴えかけるようなことば、懇願するような目。
 シンジが困惑の表情を見せながらも、少女を見つめながら口を開く。
 少女の顔に喜色が浮かぶ。そして近づこうと一歩踏み出した刹那、シンジの口から紡ぎ 出される次のことばに立ち止まる。
 そして少女の顔はみるみる落胆の表情を顕わにし……


「シンジ、フりよったみたいや」
 見ながら言ったトウジの口ぶりがどことなく、まあ当然やろ、とでもいうように聞こえ るのは気のせいか。
「くーっ… シンジのヤツうっ! なんてもったいない……」
 ケンスケの視界が悔しさににじむ。


 ミズキは両手で顔を覆い、肩を震わせ俯いてしまう。
 目の前のそんなミズキに、何か言葉をかけようと幾度か口を開きかけるシンジだが、言 うべき言葉が見つからないのか結局口を閉じてしまう。
 この街で少年を知る者が見たこともない、ひどく困り果てた顔で。


 風向きが変わったのか、見ている4人の元にミズキの小さな嗚咽が届いて来た。
「何言ったか知らないけどサードのヤツ、フるならフるで、もうちょっとはマシなケアし なさいよね!」
 アスカはシンジに対してご立腹。
 こういった場合、同性に感情移入してしまうのはいたしかたない。
「気のあるようなコト言っテ変に期待させるヨリは、いいと思うヨ」
 ヒルダがなんだか含蓄のある言葉をのたまう。


 余人の介入を許さぬ、気まずい沈黙に支配された裏庭の一角。
 しかしその時、向き合うシンジとミズキに近づく、蒼い髪の少女の後ろ姿がその合計8 つの目に飛び込んできた。
「あ、ファースト! アイツ何しに…」
「レイサン!」
 意外な人物の出現にアスカとヒルダが声を上げる。
 突然現れたレイにシンジが驚き、ミズキがはっと泣き濡れた顔を上げた。
 見ていた4人は感じた。レイの接近に、時の流れが急激に緩慢になり、その場の3人の 狭間に流れる空気が、ピシリと音を立てたように硬化するのを。
「…修羅場や……」
 ミズキ、シンジ、レイを頂点とする正三角形を見て、トウジがぽつりとそうもらした。





Evangelion Sword & Grail 第9話
マグマダイバー そして…





 ネルフ本部第3実験場。

ヴイン……
 かすかな駆動音が室内に響く。
「ボーダーライン、クリア」
 オペレーターの報告と共に、強化ガラスの向こうの巨人がうな垂れた首を上げた。
 第7使徒との戦いで負った損傷の修復が済んだ後も、試作機であるが故の不安定からか 調整に手間取っていたエヴァンゲリオン零号機だが、ここにようやく再就役を迎えた。
 カラーリングもかつてのイエローからブルーに変更され、外装も各種変更がなされた。 外見のフォルムは頭部を除けば弐号機に近いものになっている。
「零号機、再起動に成功しました」
「引き続き、連動実験に移行します」
 コントロールルームに次々と実験経過を告げる報告が飛び交う。
「…これで零号機も投入可能、か……」
 零号機再起動実験に立ち会っていたミサトが腕組み、強化ガラスの向こうの零号機を見 上げながら誰にともなく言った。
「エヴァを4機も独占… 多いのかしら、それとも少ないのかしら……」
「使徒を相手に多すぎるということはないわ」
 コンソール画面を流れて行くデータを見ながらリツコが答える。
「そのことは使徒を相手に作戦を立てるあなたが、一番わかってるでしょう?」
「…そうね」
「現時点で人類の扱いうる最強の力が、あなたの指揮下にある。それは必要だからあるの よ。私たち人類が生き残るために、有効に活用してほしいものだわ……あ、マヤ、ここの フィードバックをコンマ39下げてみて」
「はい先輩」
 コンソールを走るマヤの指が、吸い込まれるような自然な流れでキーを打つ。
(あたしの指揮下? 本当にそうかしら…)
 リツコの言葉にミサトは違和を感じる。見上げれば、零号機の1つ眼が無機質に自分を 見下ろす。見上げる。見下ろされる。零号機に限らない、どうにも自分が指揮していると いう操作感が極めて希薄だ。
 今までの戦いで、自分の指揮を離れた上で勝利した戦いが幾度あったことだろう。
 初号機の初戦、毒を使う使徒の殲滅、初号機・零号機の地下での戦い、参号機の初戦、 先の分裂使徒殲滅間際のアスカの判断……
 戦いが終わってみればその度に、己の無力を思い知らされたものだ。
 エヴァが、チルドレンが増え、使徒との戦いでその強大な力を発揮するようになるに従 い、ある思いが日増しに強くなっていく。
(絶対領域・ATフィールドを操る巨人・エヴァンゲリオン。電力の問題を抜きにすれば 地上最強の力…でも、それを操るのはあたしじゃない。チルドレンの子どもたち……)
 ミサトは零号機を見上げる視線を下ろし、サブモニターに映った零号機プラグ内のレイ を見る。
 眠るかのように瞑目しているが、眠ってなどいないことがモニターされている脳波から わかる。
 レイ、シンジ、トウジ、アスカ、ヒルダ…5人のチルドレン。14歳の兵器パイロット。
 大人と呼ぶにはまだまだ子どもだが、子どもと呼ぶには賢し過ぎる微妙な年齢。思春期 という、人間にとって心も体も非常に不安定な時期の真っ只中の少年少女。
 彼らに対し、指揮官としていかにして命令に強制力を持たせたらよいのか?
 ひとたび彼らがエヴァに乗れば、それに対抗できるものは同じエヴァか、敵たる使徒し か存在しなくなるというのに…
 ましてや下す判断・命令すら、使徒という未知の存在を前にして、自身あやういと思う。
(そんなあたしの言葉が、いつまで力を持つのやら…)
 このまま戦いが続けば、いつの日か、エヴァに乗ったチルドレンは、自分たち大人の手 などいとも簡単に振りきってしまうのではないか、ミサトにはそんな気がしてならない。
(もしそうなったら、あたしたちどうなるのかしら…)
 エヴァの庇護を失った人類は、果たして…
「…でも、意外でしたね」
 自分の担当箇所が一段落つき、唐突にマヤが口を開いた。
「え? 何? マヤちゃん」
 もの思いにふけっていたミサトが、マヤの声にレイの映ったサブモニターから視線を移 す。
「あの子たちみんな、あまり残念そうにしてなかったじゃないですか。あの年頃なら、修 学旅行、楽しみにしてたと思うのに」
 明後日から予定されていた第一中学校の修学旅行、三泊四日沖縄行きの期間、チルドレ ンは本部待機が決定された。
 決定も何も、使徒がいつ来るかもわからないこの非常時に、エヴァのパイロットたるチ ルドレンが第3新東京市を不在にすることなど、何をおいても許されはしない。
 その通達がついさっき、シンクロテスト後のミーティングの後にチルドレンに為された のである。
「アスカとヒルダはドイツで徹底して教育されてるからじゃないの? 優先順位をわきま えてるのよ」
 リツコがドイツ支部から回ってきたアスカとヒルダのプロフィールを思い出しながら答 えた。記録によれば2人は6歳の時から現在まで、およそ8年間に渡ってエヴァンゲリオ ンパイロットとして実験と訓練に携わって来たことになる。
 訓練カリキュラムには当然、パイロットとしてのマインドセットも含まれる。
「レイはああだしね…」
 ミサトがつけ足した。
 リツコの言葉通りならば、レイはエヴァとのシンクロ適性を見出されてから10年以上 もネルフにいることになる。アスカとヒルダ同様、パイロットとしてのマインドセットは 徹底して為されていると想像できる。
 ただミサトには普段の様子から、レイに関してはそれが徹底し過ぎているように思えた が。
「じゃあ、シンジ君とトウジ君はどうなんでしょう? 2人も、あまり残念そうにしてま せんでしたよ」
 シンジとトウジはついこの間までただの民間人。マヤには2人の少年が、物事をチルド レンの少女たちのように“任務”“命令”と割りきれているとは思い難かった。
「…言われてみるとそうね。確かにトウジ君なんか、文句の1つも言ってよさそうなのに ……」
 ミサトは事項を通達した際のチルドレンの様子を思い出す。


 シンクロテストのためにシミュレーションプラグの用意された第8実験室。コントロー ルルームにて行われたミーティング終了後、修学旅行参加不可・本部待機を通達され、抗 議の1つも出るものと思いきや
「そんなの、言われなくてもわかってるわよ」
「そだネ」
 アスカもヒルダもあらかじめ予想していたのか別段憤慨などしなかったし、シンジなど もまた
「なんとなく、そうなると思ってました」
 と、漠然とこうなることを想像していたようである。
 幼い頃からチルドレンとしての訓練を受けてきた、レイやアスカとヒルダ。チルドレン としても普通の中学生としても特異な生い立ちを持つシンジ。それと比べると、チルドレ ンの中ではトウジが一番、普通の年相応の少年らしいし、現にそう振舞っているようにも 見えるのだが、そんなトウジの反応なども
「ま、しゃーないやろ」
 と、至極あっさりしたものだった。


(わかんないのよねー…あの子たちって、何考えてんだか……)
 どうにもその胸の内が読みきれない。
 大人には見通せない14歳の心が、人類の未来を担って最強兵器を操る。




 沈む夕陽に少年少女の4つの影が長く延びる。
 赤い陽射しに照らされてアスカとヒルダが並んで歩き、その数歩後ろをシンジとトウジ がついて行く。
 別にネルフからの帰りまで一緒に行動するよう言われているわけではないが、目的地が 皆同じコンフォート17マンションなので、必然的に中学生の集団下校の様を呈してしま う。
 ユニゾン訓練以後、アスカとヒルダはミサトの勧めもあってこれ幸いと正式にジオフロ ントから葛城邸に移り住んだ。学校へ行くのにいちいち地下都市から地上に上がるのも面 倒だったし、いくら最新鋭の設備が充実していても、若い盛りに日の当たらない穴ぐら生 活では鬱屈するものだ。
 しかしトウジの自宅は反対方向のはずである。
「…なんでアンタもこっち来んのよ」
 アスカが振り向きじこっとトウジを睨んだ。その髪が赤い陽射しにふわりと燃え立つ。
「シンジに晩飯食わしてもらおー思うてな」
 シンジの作る“うまいメシ”を想像して、トウジの顔が自然とほころぶ。
「ウチ帰っても誰もおらんしのー、ミサトはんにも男の独り暮しは栄養偏るからたまには そーせー言われとるし」
 ミサトが云々言っているが、つまるところはユニゾン作戦の共同生活の折に味をしめた のだろう。
 コンフォート17マンションはトウジの自宅より一中にもネルフにも近い。そのためも ともと不精者のトウジは訓練やテストで遅くなると碇シンジ宅に泊まり出し、その割合が かつては週に1度くらいのペースだったのだが、ここ最近は3日に1度になってきていた。
 別段シンジも嫌がってはおらず、このままではそのペースが2日に1度になるのは目に 見えている。シンジ宅の空いた一室にもトウジの私物が増え出している現在、最終的にシ ンジ宅に居候となるのは最早時間の問題と言えた。
 トウジに偏食を注意しながらも、ミサト自身もアスカとヒルダがやって来るまではその 食生活を全面的にコンビニと外食に依存し、ちょくちょくシンジの料理ををたかりに行っ ていたのだから世話はない。
 ちなみに現在葛城邸の家事は、3人の女性陣の中で最も家事能力の高いヒルダが取りし きっている。
「修学旅行サ、ちょっと残念だっタネ…」
 アスカの横のヒルダがちょっと振り向いて、後ろを歩く少年2人を視界に入れながらポ ツリと言った。ちょっと寂しげに微笑みながら。
「ミンナで行けバ、楽しいと思ったノニ」
 しょっちゅう揃って欠席しがちなチルドレン5人は、本人たちも知らぬ間にそのまま5 人で班を作らされていた。
 本部待機を命じられた今となっては、それも無駄になってしまったわけだが。
「べっつにい… 今さら修学旅行なんてキョーミないわ」
 両手を頭の後ろで組んでカバンを持ちながら言うアスカだが、こころもちいつもの威勢 の良さがない。
(アスカも意地っぱリだネエ…)
 昨晩ヒルダが風呂の空いたことを知らせにアスカの部屋を訪れたとき、アスカが姿見の 前に衣装ケースの中身をぶちまけながら、修学旅行に着て行く服の品定めを長いことやっ ていたのだ。携帯電話でヒカリと楽しげに話しながら。
「…そうだね。僕、修学旅行ってはじめてだったし…」
「あ、シンジクンも? いやー実はボクもだったんだよネー、ミンナでわいわい旅行って サ… トウジクンは?」
「ん? ワイか? ワイはどっちみち行か…」
 ヒルダに答えかけたトウジだが、数瞬、ふが、ふが、と鼻をひくつかせ
「ぶえっくしっ!」
 ミサトたちに噂されていたせいでもあるまいに、盛大なクシャミをした。
「キッタナイわねー、つばがかかったじゃない!」
 前を歩いていたアスカが振り向き、露骨にイヤな顔をして怒鳴った。
「おーおー、悪いなそーりゅー」
 たいして悪いなどと思っていないことがありありとわかる態度で言いながら、トウジは ハンカチもちり紙も持ち歩かない主義なのか、ジャージの袖で鼻をふく。
「トウジクン、風邪?」
 そんなトウジにヒルダがポケットティッシュを渡す。
「おお、ありがとさん」
 ずずっとすすりながら鼻をふく。
「サード、餌付けしてんのならちゃんとバカジャージのシツケもしときなさいよね」
「バカジャージいうんわワイのコトかい?」
 エヴァに乗っていようがいまいが相変わらずなトウジとアスカは、何かにつけていつも のように不毛な言い争いに突入する。
(もう2人とモ、お互い趣味でやってるとしか思えないんダヨネー…)
 ヒルダが深深と溜息をついた。
 大概アスカがトウジを露骨に挑発するか、トウジがアスカの態度に腹を立てるかどちら かではじまる。
 結局のところ、ロクな訓練も経ず、突出した才能があるわけでもないのに自分と同じエ ヴァのパイロットであるシンジやトウジの存在自体がアスカには気にくわない。
 自分が何年もかけて勝ち得た座を、なんの苦労もなく手に入れ肩を並べている。そんな 少年2人の存在は、ある意味自分の今までを否定しかねないものだから…
「バカにバカって言ってぬあにが悪いのよっ! アタシ知ってんのよ、この間の中間テス ト、ヒカリにノート借りてたくせに学年で最下位から3番だったって! それでよくパイ ロットやってられるわね!」
「んなのカンケーあらへんわい! ワイかておどれが漢字テストんとき、イインチョに山 かけてもらっとんの知っとるんやで!」
「ぐっ!」
 こうなってくると、ミサトの“集団行動でチルドレン同士の信頼関係を醸成しよう!” 作戦も裏目に出ているとしか思えない。
 もう徹底的にうまが合わないのだ。アスカとトウジは。
 ただトウジが硬派を気取っているせいか、はたまた案外フェミニストなのか、それとも アスカがパイロット同士でケガをさせ合うようなマネは避けるべきだと考えているのか、 手や足が出ないことが幸いと言えば幸いだった。
 エヴァに乗った時はその限りではなく、互いに容赦なくどつき合う。大概その前にシン クロカットされてしまうが。
 エヴァ搭乗時ならともかく、普段のアスカとトウジのいざこざを仲裁するのもいいかげ んいつものことで疲れたヒルダが、2人を無視してさっさと前を歩くシンジに近寄って行 った。
「2人ともサア、テスト終わって疲れてるのに、よくやるよネー」
 言いながらヒルダがシンジの隣でチラと視線を後ろの2人へ向けるのだが
「……」
 ぼうっとしたシンジは上の空、聞いちゃいない。
(ははーン…)
 そんなシンジの様子に悪戯っぽい笑みを浮かべながら、ヒルダはくるりとシンジの前に 回って向かい合い
「シンジクン?」
 後ろ歩きになりながらもう1度言葉をかける。
「あ、何? ヒルダさん」
 視界に入ってようやくシンジの意識がヒルダを捉えた。
「…もしかしてサ、昼間のコト、考えてタ?」
「あ、えーと…」
「レイサン、なんだか恐かったもんネー」
 ヒルダはその時のレイの無表情だが剣呑な雰囲気を、そして硬化した三角形を思い出す。
「え? そうだったかな… あんなことはじめてで、あの時はどうしたらいいかわからな くなってて、でも綾波さんが来てくれて助かったんだけど…」
 シンジは言いながら苦笑した。
(気づいてないノ?)
 その様子からは、照れや冗談で言っているようには見えない。どうやら本気であの場面 でレイが現れて助かったと思ってる。
 ヒルダが先ほどより更に深い深い溜息をつきながら、シンジの肩をポンと軽く叩いた。
「どうしたの?」
「イヤー、レイサンも大変だなあって思っテ」




 白いテーブルに片肘をついて、その手に形のよい顎を乗せながら、シンジはノートの液 晶画面を見つめている。
(好きです、か……)
 しかし視線は画面を向いていても、心は一昨日に溯っていた。



 2時間目の終わりの休み時間、トイレに行った帰り道、1人の女子生徒に呼びとめられ た。
「あの、碇…シンジ君」
 ポニーテールに髪を結び、健康そうに日焼けした綺麗な女の子が1人、教室前の廊下で 躊躇いがちに話しかけてきた。
「そうだけど、何?」
「あたし、B組の坂下ミズキっていいます。…あの、碇君に…お話、したいことがあって ……」
 ややもすればシンジの顔を見られずに下を向いてしまいながらも、ほぼ一方的に放課後 校舎裏に来てほしいと告げると、返事も待たずに隣の教室に駆け込んで行ってしまった。
(えーと…)
 たった今、生まれてはじめて自分の身に起きたコトをいかに解釈したらよいのかと考え ているうちに、休み時間終了のチャイムが鳴った。
 その光景を見ていたもの見高い生徒たちの中に、ジャージ姿とメガネの少年の姿があっ た。シンジは気づいてなかったが。


 そして放課後。
 帰り支度を済ませてから律儀にシンジが校舎裏を訪れると、既にミズキと名乗った少女 が待っていた。
 こういう状況が何を意味するのかは、いくらシンジが少々変わっていても薄々は察して いた。しかしいざ実際に直面してみると、どう対応したらよいのかわからなくなってしま う。
 向かい合う、少女と少年。
 少女は俯きがちに下を見ながらチラチラとシンジの方を伺う。シンジははじめての状況 にどうしたらよいのかと戸惑いながらも、もし、この状況が“そういうもの”であったな ら言おうと一応自分の中で組み立ててきた言葉を整理する。
 いつまでそうしていただろうか、やがてミズキが意を決したように後ろで組んだ手を胸 のまえで握り締め、顔を上げてシンジを真正面から見つめて口を開いた。
「好きです…碇君のことが…」
 告げられる、好意。
 それが、かつていた向日葵園の子どもたちが何気なく言う「すきー!」という明快な好 意とはやや別のものであることくらいはシンジにだって、わかる。
 言葉の上では知っている。異性が異性を好きになること。男女間の恋愛感情。目の前の 少女が告げたものが、それに基づくものであること。
 中学生のそれは、まだまだ幻想がほとんどの、未成熟なものだけど。
「…ありがとう、うれしいよ、すごく…」
 好意はうれしい、単純に。
 でも……
「じゃあ…」
 そっとやさしげな表情のシンジの紡ぐその言葉に、束の間少女の顔は期待に満ち、近づ こうと一歩踏み出すのだが、続く次の言葉がその歩みをとどめた。
「でも、僕を好きになんか、ならないで」
「え…? どうして…」
「僕は、坂下さんに好きになってもらっていいような人間じゃ、ないから……」
 シンジの瞳が曇りを帯び、すっと出した右手に視線を落とす。開いた掌を握り締めなが ら,言葉をつなぐ。
「…この手は、人を傷つけることしか、しないんだ」
 その身と心を守るため、傷つけてきた多くの人たち。何も知らぬまま、わからぬままに傷 つけたトウジとトウジの妹・ハルナ。
(僕は、そんなにいい人間じゃ、ない…。誰かにそんな好意を、持ってもらえるような… …)
「……」
「それにさ、話したこともほとんどないのに、好きだなんて、変だよ…」
 シンジが顔を上げ、告げる。
(これでいい、彼女には悪いけど……って、あ……)
 見れば少女は両手で顔を覆うと、その細い肩を震わせ泣き出してしまった。
(どうしよう…)
 ちょっと考えて見れば、勝手に思い込んで勝手に告白して断られたのだから別にシンジ に責任があるわけではない。しかし今までかなり荒んだ生活を送ってきても、女の子を泣 かせたことは生まれてこのかた1度もなかったシンジを困らせるには十分だった。
(こういうときって、どうしたら…)
 放っておいたままその場を去るのも何か気がひけ、どうしたものかと考えあぐねていた その時
「碇くん…」
(え?)
 憶えのある声が耳に飛び込んできた。シンジがその声の主の方を向くと、同時にミズキ も泣き濡れた顔を上げてそちらを見る。
 白い姿、赤い瞳。
「綾波さん…」
 学生カバンを持ったレイが佇んでいた。
 シンジを見、ほんの束の間視線のみをミズキに向ける。
(ひっ…)
 ミズキが見えない何かに刺し貫かれたように、目に見えてびくんと体を震わせ、嗚咽を 止めた。
 レイは特に何をしたわけでもない。顔はいつものように無表情で、仮に今のレイの顔写 真とネルフで訓練中の時の顔写真を比べて見ても、誰しもその2つの顔の表情の区別はほ とんど不可能だろう。
 しかしミズキは感じた。レイの視線から発せられる、おそらくは同性にしか感じ取れな い“何か”を、ひどく敵意に満ちた“何か”を…
「…早くしないと、テストに遅れるわ…」
 再びシンジに視線を戻しながら淡々と告げる。その口調は極めて事務的… しかし言い ながら
「あ…」
 返事も待たずにレイの白い手が、躊躇いなくシンジの軽く握った右手をとる。
(あ、綾波さん…)
 その手の冷たいがやわらかな感触に、シンジは急激に顔に熱が集まり出すのを感じる。
「行きましょ…」
 そして右手をとったまま、身を翻して校門へ向かおうとする。
 されるがままに引っ張られて行くシンジ。
「ちょ、ちょっと…」
 シンジの声など無視して進むレイの足取りはいつもと変わらないものの、なぜか結構な 力があってシンジも立ち止まれない。
 それでもなんとか振り向くと、呆然と立ちすくんでいる少女に向かって言った。
「ごめんね…」
 角から呆然と見送るトウジ、ケンスケ、アスカ、ヒルダを尻目にレイはずんずんシンジ を引っ張って行く。


 そしてシンジは無言のレイに、そのままジオフロントまで引っ張っていかれた。



 ざぱーんと遠くから水音が聞こえてくるが、もの思いにふけるシンジの耳には届かない。
(…僕が誰かを好きになることなんて、あるのかな……)
 それはどんなことなのだろう。一緒にいたいと思うこと? 触れ合いたいと思うこと?  大切に思うこと? なくしたくないと思うこと?
 そのときなぜか、蒼い月明かりの下で見た小さな笑みが思い浮かんだ。
(…あれはなくしちゃ、いけないよな……)
 はたと気づく。
(あれ? どうしてここで綾波さんが出てく…)
「シンジい、 何やっとんのや?」
「うわあっ!」
 ノートの液晶画面に向けられたシンジの視界に突如、角刈り少年の日に焼けた横顔が飛 び込んできた。別にやましいことを考えていたわけでもなかろうに、シンジはひどくあた ふたと慌ててしまう。
「…って、なんだトウジか、おどかさないでよ」
 見れば、シンジがノートを置くテーブルの横にトウジが腕を組んで立っていた。いつも のブラックジャージでなく、黒いトランクスの水泳パンツ一丁の姿だ。
 その体からポタポタと水滴が落ちている。
「なんだとはなんや! せっかく息抜きに泳ごいうんに、水着にも着替えんで」
 ひょいとトウジが親指で指差す先は、競泳用巨大プール。
 ジオフロント詰めのネルフ職員の健康管理ための設備である。
 修学旅行期間中の本部待機の間、チルドレンは午前中の定期検診とシンクロテストのみ で午後は自由とされた。
 旅行に行けない子どもたちへの、ミサトのせめてもの配慮である。もちろん第3新東京 市を離れることはできないし、使徒が来ればその限りではない。
 そんなわけで午後の一時を、チルドレンは息抜きに泳ごうとこのプールへやって来た。
 若干2名、姿が見当たらないが。
「体の傷のことならワイら気にせーへんで?」
「…うん、別にそういうわけじゃないけど…」
 シンジの全身の傷痕を慮るトウジの気遣いに、シンジが何か言いにくそうにしていると

ザバアッ!
「よいショ」
 水音を立て、プールサイドから銀灰色の髪の少女が上がってくる。その束ねた長い髪を ぎゅっと絞りながら、ぺたぺたぺたと足音を立ててシンジたちの方にやって来た。
「ヒルダはん…」
 元々のメリハリがききつつスレンダーなプロポーション、その上白い肌に黒のワンピー スの水着が映え、キラキラと滴る水雫が光り、シンジとトウジはぼうっと見とれてしまう。
(わあ……)
(き…キレイや…)
 2人ともこころもち顔が赤い。
 ケンスケが見たらまさに「男なら涙を流して喜ぶべき光景だねっ!」と感涙しながらカ メラを回したことだろう。
 テーブルに近づいてきて、シンジのノートを覗きこむ。
「あ、勉強してるノ? マジメだネーシンジクン。…っとどれどれ、りかだいにぶんや・ いもりのはいぶんかつ? なにコレ?」
「えっと…この間の理科のテスト、追試なんだ。それで生物なんだけど…」
 ヒルダに問われてシンジが慌てて視線を液晶画面に戻し、映し出された画像と文章を解 説する。
「イモリってカエルの仲間みたいな生き物の受精卵を、まだ分裂がはじまったばかりの時 に2つに割ったらどうなるかって問題なんだ」
「死んでまうんやないか? じゅせーらんてーのは生きとるもんの大本やろ? それをぶ った切ったらそらあ…」
「違うヨー、フタゴになるんダヨ。割れた細胞がそれぞれ別に分裂し出しテ」
「え?」
「そないなコトあるんか?」
 シンジとトウジが驚きに目を丸くする。授業をちゃんと聞いていればわかることなのだ が、どちらも学校の成績は下から数えた方が早い。
「そだヨ。まだ受精してすぐの時なラ、細胞っテその生き物のドコのナニになるかがまだ 決まってないんダ。逆に言えバその体のドコのナニにでもなれるってコト。人間のイチラ ンセーのフタゴだってそうやってできるんダヨ」
「へえ…」
「ほーなんか」
 ヒルダの講義に成績不良の少年2人は尊敬の眼差しを向ける。ヒルダも悪い気はしない のか、両手を腰に当てて、へっへーんどんなもんダイ! とご満悦な笑顔を見せた。
 しかしそれからチラとシンジに怪訝な視線を向け、むむむウ、とその形のよい眉根を寄 せる。シンジの姿になんだか違和感がある。
「どしたんや、ヒルダはん?」
 訊きながら、トウジもヒルダの視線を辿ってみる。
 ヒルダが見れば、シンジはいつもの長袖シャツの学生服姿。
 トウジを見れば、水泳パンツ1丁。
 ヒルダ自身も水着姿。
 彼ら以外は誰もいない。なかーまはっずれーがひーとりっいるっ。
 にまっと悪戯を思いついた悪ガキの笑みを浮かべると、ヒルダはトウジに視線を送った。  交されるアイコンタクト。
(そゆことかい…)
 にっと笑うトウジ。どうやら同じ意見らしい。
 先の作戦にて、最後のツメは甘かったものの、見事なユニゾンを見せた2人である。視 線を交すだけで何かの合意に達したようだ。
「え?」
 ぐわし! とシンジの右腕をトウジが、左腕をヒルダが掴んでイスから持ち上げた。
「え? え? え?」
 両脇から引っ張り上げられ、そのまま捉えられた宇宙人のようにプールサイドまで引き ずられてゆく。しっかり掴まれていてシンジは身動きがとれない。振り向けば背後は水。 競泳用なので水深は2メートルを超え、大人でも足はつかない。
「ま…まさか!」
 そこから連想されたものに、シンジが抗議の声を上げかけるのだが
「シンジクーン、マジメなのもいーけどサア……」
「たまには年頃らしゅう遊ばんと、もたへんでー」
 トウジとヒルダは顔にニヤニヤ笑いを浮かべたまま。
「ちょ! ちょっと待ってよ!…僕泳げ……」
 自分を捉える2人の顔を交互に見ながら、真っ青な顔をしたシンジが必死に訴えるのだ が…
「いっせーノっ!」
「そいやっ!」
 妙に楽しげな2人がかけ声とともにシンジを水面に向かって放る。
 解かれた拘束と間髪入れずに体に襲いかかる浮遊感に、その後の状況を想像したシンジ の悲鳴が午後のプールサイドに響き渡る。
「うわああああああっ!!」

どっぽーん!
 立ち昇る盛大な水飛沫。


 地上から取り込まれた光が天井から白く降り注ぎ、仰向けに水中を漂う白い白い少女の 姿をかすませる。
 水との境界がひどく曖昧に見えるのは、何も白色光のせいだけではなさそうだ。それほ どまでにその姿形は水中にあって違和がない。20世紀後半、人類とは水棲のサルの末裔だ という説を唱えた科学者がいたが、その説も泳ぐ彼女の姿を見れば、あながち的外れとも 思えなくなってくる。


 降り注ぐ光に眩しげに細められる、少女のその赤い目に浮かぶのは先日校舎裏で見た光 景。向き合う少年と少女。
 その内少年の方は自分の…
(…何だと、いうの?)
 飾気のない白いワンピースの水着姿を水の中に溶け込ませながら、レイはその時の感覚 を思い起こす。
 いつもなら落ち着くはずの水の中。なのに心臓の位置する部分に生じる異物感。それが 何なのかレイにはわからない。
 確かなのは、ひどく不快だということ。
(碇くんがセカンドチルドレンを追った時も、そう…)
 それはミサトに伴われてユニゾン訓練を見学に訪れた際にも感じられた。しかし校舎裏で向き 合うシンジと少女を見た時の感覚は、それの比ではない。肉体的な苦痛とは異なるその感 覚に突き動かされるように、気づけば2人に歩み寄っていた。
(…あなたは、そっちにいるべきじゃ、ない…)
 手を取った、引き戻すために。
(あなたがいるべきなのは、こっち……)
 はたと気づき、レイの赤い瞳が見開かれる。
(…わたしは何故、こんなことを考えて…)
 疑問につき当たる。あの行動になんの根拠があったのか?
 あの時自分を動かしたのは、本来基づくべきネルフの規律でも命令でもない。なんの根 拠もない確信。単なる思い込み。臆見。ドクサ。
 そっちはどっち? こっちはそっち? 見えない境界。心的空間。パーソナル・スペー ス。
 その時水中を漂うレイの耳に、ざぼ、というくぐもった音が届いた。
(…何?)
 降り注ぐ光に白一色に埋め尽くされたレイの視界に、長袖学生服姿の少年が飛び込んで 来る。目を見開き、必死に己のノドを押さえてもがき苦しむその少年は…
(碇くん!?)


 すぐに浮かび上がって文句の1つも言ってくるだろうと思い、上がってきたらひとしき りからかってやろうとシンジの没した辺りを眺めていたトウジとヒルダだが
「……」
「……」
 プール水面にはぽこぽこと幾つか気泡が浮き上がっては弾けるほかは、何も変化がない。
「……ネエ…」
「なんや?」
「…上がってこないネ…」
「…そやな……」
「……シンジクンさア、なんか言いかけてたような気がするんダ…」
「…そういやそやな」
 2人は放り込まれる直前のシンジの言葉を思い起こす。
((「ちょ! ちょっと待ってよ!…僕泳げ……」))
 使徒を前にした時ですら見られない、慌てふためき恐怖に彩られたシンジの必死の形相。
「…シンジクン、実は泳げないんじゃ……」
 そんなことないヨネ! と否定を期待しながらヒルダはちょっと引きつった笑みを浮か べ、トウジに言うのだが。
「…そういやシンジが水泳の授業出たの、見たことあらへんな…」
 トウジが更にその推測を後押しするような事実を思い出す。もっともネルフのテストや ら訓練やらで、授業に出ている回数自体、少ない中での事実だが。
「あははは…まさかネー…あのシンジクンがネー…」
「そ…そやそや、あのシンジがなあ……」
 2人はサーっと顔から血の気が引くのを感じながら、どこか乾いた笑いを浮かべるが、 はたとそれを止めると
「シンジイっ!」
「シンジクン!」
 一瞬にしてその顔を真剣に引き締め身を翻し、プールに飛び込もうと身構えた。
 しかしその時、ぱしゃんと小さな水音が響き
「げっ…ゲホッ!」
 力なく咳き込みながら、シンジがその頭を浮上させた。
 そのままするするとトウジとヒルダのいるプールサイドまで寄って来る。しかしぜいぜ いと手で口元を押さえるその様子からは、手足を動かし浮力を得ているとはとても考えに くい。
 その浮力の正体は、生まれて間もない子鯨の息つぎを助ける母鯨のようで。
「あ、レイサン」
 シンジの頭のすぐ後ろにある蒼い髪。背中にぴたりとはりついて、左のわきの下からそ の左手をさし込みしっかと捕まえ、残りの手足を器用に使って泳いでくる。
 トウジとヒルダの方をチラと見上げる。その赤い瞳の中に非難の色が見え隠れして見え るのは気のせいか。
(怒ってル。怒ってるヨウ!)
 勘のいいヒルダが無表情なレイの瞳に篭った怒りに気づいて、心の中で悲鳴を上げる。
「悪かったシンジ! カンニンしいや。まさか泳げへんとは思わんかった…」
 トウジがあやまりながら、プールサイドまで来たシンジの手を取り引っ張り上げる。
「…ごめんネ、シンジクン…」
 ヒルダも悪ふざけが過ぎたとうな垂れ、しゅんとなってしまう。
「…ひ…ヒドイよ、トウジ、ヒルダさん……」
 プールサイドに腰掛け、シンジはけほけほ咳き込みながら水を吐き出す。それから濡れ た顔を袖で拭うと、視線をプールに向けた。
 そこにあるのは水面から顔の上半分だけ出して、じっとシンジを見上げる赤い双眸。
「助けてくれてありがとう、綾波さん… かふっ…」
 感謝の言葉は咳き込みながら、力ない微笑みに乗せて…
 その刹那、ぼっと音でも聞こえてきそうなほどその頬を染めると

ぽしゃん…

 小さな水音とともに、レイはその顔を水の中に隠してしまった。
「…レイサンって…ケッコウ恥ずかしがり屋サン?」
 ほけっとその様を見ていたヒルダが言い、
「しかし綾波…いつから水ん中入っとったんや?」
 トウジが至極もっともな疑問を述べた。




 某組織の作戦部長並に乱雑に積み上げられた書類のせいで影となり、ライトで照らし出 された部屋でありながら薄暗がりとなったデスクの上。晧と光るノートの液晶画面に長虫 の這いまわったような文様が映し出されている。
 幾つもの欠落を挟みながらも、横並びに規則正しく配置されたそれを、読むことはでき なくとも“文字”と判じてしまえるのは同じく文字を操る人間だけだろうか。
 画面の青白い光が、ボサボサの蓬髪を後ろで結んだ男・加持リョウジの顔を照らし出す。
(ドイツのテキスト、マーレボルジャ所蔵のテキスト…)
 タタン、タタンと手馴れた様子でキーを叩き、マウスを繰って2つのウインドウに表示 されたテキストを対照させる。
「全部とはいかないが、さて…」
 ノートのサイドにあるスリットに、1枚のディスクを挿入する。
(今の時点で、何がわかるか)
 カリカリと乾いた音を立てながらディスク内のデータが読み込まれて行く。その過程で 画面に表れては消える英数字の中、ただ1つ、恐らくは日本人の名を示す文字列が表れた。

…Nobusada Yamagisi

 次の瞬間、とても意味を為すようには見えない文様が、詳細な注と英語、ドイツ語、日 本語訳を配したテキストに生まれ変わる。
(たいしたもんだな、マユミちゃんのお父さんてのは…はてさて、時系列を現在に合わせ て、使徒襲来のタイムスケジュールは、と…ん?)
 加持の目に留まったのは、使徒を表す語句の数(すう)だった。
 解読しようとした部分の直前にある、先の分裂使徒の記述箇所、使徒が単数形と両数形 の両方で記述されているのは理解できなくもない。(単数形は文字通り“1”を表し、両数 形とはサンスクリット語などに見られる形で、単数形と複数形の間に位置して“2”を表 す形を言う)
 しかしその次に出現するとされている使徒は…
(単数形? 両数形? 複数形?)
 その記述されるべき数の部分が極めて曖昧だ。単数形で記されたと思ったら次の箇所で は両数形で、または複数形で記述され統一されていない。
(結局まだまだ穴だらけってことか…残るは“ここ”のテキストだけなんだが……くっ!)
 その時プシュンと背後のドアの開く音が加持の耳に届いた。刹那、その右手を手元に放 ったバインダーの下に滑り込ませて冷たい金属の感触を確かめ、デスクの傍らに置いた手 鏡で後ろにいるであろう人物を確認する。
 鏡の中でチラリと翻る赤い髪。
(やれやれ、脅かすなよ…)
 ほっと右手から力を抜き、キーを叩いて画面を何の変哲もない経費の報告書に切りかえ る。
「かーじーさんっ!」
 加持の背後からその首に腕を回し、制服姿のアスカが抱きついた。
「お仕事まだ終わんないの?」
 アスカがかけた体重で、加持が座るイスの背もたれがきいと音を鳴らし後ろにしなる。
「うおっとと…どうしたんだアスカ? 他のみんなはどうした?」
 ぽんぽんとその白い腕を軽くたたきながら加持が振りかえる。大概一緒にいる他のチル ドレンのメンバーが見当たらない。
「屋内プールに泳ぎに行ったわ。それより…」
 他のメンバーとセットで扱われたのが気に入らないのか、いささか声のトーンを落とし ながら答えるが、すぐにここ、加持の私室に入って来た際のどこか甘えるような調子で話 し出す。
「一緒に行かなかったのか?」
「べっつにい…ガキの遊びなんかに付き合ってらんないわよ! それより加持さあん♪  ご飯まだでしょ? アタシもまだだから…」
 矢継ぎ早に話すアスカから視線を前に戻すと、ノートを閉じてよっこらと立ち上がる。
「…そうだな、そろそろメシにでもするか?」
「らあっきー♪」
 アスカは満面の笑みを浮かべると、加持の腕を取ってはやくはやくとせかす。
「おいおい、そんなに急がんでもメシは逃げやしないぞ」
(これから大変なんだぞ、アスカ)
 軽口をたたきながらも、それと知れず加持の目がやや細まる。
(…これが最後の晩餐なんてことも、ありえない話じゃないんだからな……)



「浅間山火口内に謎の浮遊物体、か…」
 ネルフ本部戦略会議室。冬月がリツコから受け取った書類に目を通し、視線をこの室内 では数少ない光源の1つである床面の大型スクリーンに向ける。
「無視はできんな」
「…使徒である可能性は?」
 直立しスクリーンを見下ろすゲンドウが問う。暗い室内にスクリーンの光を受け、赤い サングラスがぼうと光る。
「確証を得られるほどデータが揃ってはいません。しかし現在まで本部・松代の監視シス テム共に浅間山周辺から無視できないパルスを検出していたのも確かです」
 室内に同席する青葉シゲルも、スクリーンを見下ろしながら報告する。
(可能性もなにもないわ…)
 自身、手もとのデータを見ていたリツコも目を床面に向ける。そこに映っているのは、 一面オレンジに追われた中に見え隠れする黒い影。岩をも溶かし尽くす高温・高圧の状況 下で形状を保ったまま存在できるものなど、人知を超えた存在しかありえない。
(…溶岩の中を遊泳なんて、エヴァでも無理なのにね……)
「マギの判断は?」
  冬月の問いに、リツコの隣に立つマヤが胸元のノートのキーを叩く。
「フィフティ・フィフティです。ですがバルキスのデータを統合して分析させると、およ そ74.36%の確率で、使徒と……」
「現地へは?」
「既に葛城一尉が到着。データの収集に当たっています」



ピー………
 甲高い電子音をその室内に鳴り響かせて、モニターの向こう側、赤い灼熱地獄を今日ま で監視し続けて来た観測機が、その耐用年数の半分も消化しきらない内に圧壊、チリ一粒 残さず消滅した。
「葛城さん!」
 それをただ黙って見ていることしかできなかった職員の1人が非難の叫びを上げるが
「うちで弁償いたしますわ…日向君」
 ミサトは意にも介さず、傍らで収集されたデータの解析に励む部下に問いかける。
「…ギリギリで間に合いました…パターンブルー。間違いありません、使徒です」
 答えながら、マコトが自分のたたくコンソール前のモニターに解析結果を表示する。
「…胎児?」
 そこに映し出されたのは、膝を丸めたヒトの胎児のような形状の黒い影。
「まだ本格的に活動を開始する前の状態、使徒の生態なんてわかりませんが、蛹、あるい は幼生のようなもののようです」
「…蛹、幼生……」
 映し出された使徒の影を見据えながら、ミサトが呟く。その脳裏によぎるのは過去。彼 の極地で起きた、人類最初の使徒との接触。
 御使いの名を持つものの発するには奇怪な…あまりに奇怪な声を聞きながら、自分は見 たはずだ。不用意な使徒との接触が何をもたらすのか。
 暗天を白く染め抜き光が駆け上る。6枚の光の……
(くっ!)
 じわりと手の中に嫌な汗がにじむ。その身に深く刻みつけられた恐怖に、今にも震え出 しそうになるのを悟られぬよう、唇をキツく噛み締める。
(…それでもこれは、チャンス。 ……生きた使徒のサンプル、それさえあれば…)
 これまで幾多の使徒と戦いながらも、未だ明らかとはならないその生態・能力。今まで 得られたサンプルは全て骸。生体と死骸では得られる情報量は桁違いだ。
 生きたそれを分析できれば、出現パターン、活動目的、そしてその弱点を探り出すのも 夢ではない。
 この身に巣食う、恐怖を打ち払うためにも…
「どうしますか? 葛城さん」
「…日向君、回線をすぐに守秘回線に切り換えて、司令にA−17を要請するわ」
 どこか押し殺したような声でミサトが告げる。
「えっ? A−17を? ですか!」
「はやく!」
 その意味を知り、躊躇う日向を叱咤するように言いつける。
「は…ハイッ!」
 ミサトは作業に戻る日向から顔を上げ、後方から非難がましく自分たちネルフスタッフ を見つめる浅間山地震研究所の職員たちに振り向くと
「これより当研究所は完全閉鎖、NERVの管轄下となります。今後別命あるまで、研究所 における一切の入退室を禁止。現在より、過去6時間までの全ての情報を部外秘とします。 ご協力をお願いします。以上」
 一方的に告げた。依頼の姿を借りた、命令を。




第9話Bパートへ続く

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