悲しみと絶望の"赤"の世界。
少年が想う少女はすでに動かない。
やがて少年もまた動かなくなる。
WANDERING CHILD 第壱話
その真新しい病室は、非人間的なまでに白く、清潔だった。
現在、ICUとしても使われるその病室には、各種の医療用の機器は置かれていない。
そのため、不自然なまでに広さを感じさせ、そのことが寒々とした雰囲気にしていた。
「ん……?ここは」
少年は目を覚ますと周りを見回した後、天井を見上げ昔を思い出す。
「知らない天井……だったかな」
一瞬ノスタルジーに浸りかけた少年の顔は、しかしすぐに苦々しくゆがむ。
(失敗したなぁ。あそこで綾波が出てくるの、忘れてた)
少女のようにも見える繊細な顔をした、美少年といってもいい少年。
しかしそれを覆う頼りなげな、あるいは意志の弱そうな表情を持った少年――碇シンジは、表情をわずかに曇らせる。
(傷口開いていたし、やっぱり前と同じなのかなぁ。
すぐにエヴァに乗ればよかったんだろうけどじっくり考える時間も無かったし。
だいたい気が付いたら第三新東京市に戻ってるし、第3使徒はでてくるし。
状況を把握する前にミサトさんが来て、車ごと転がって。
また道に迷って……ミサトさん変わってなかったなぁ)
少年を迎えにきた紫がかった黒髪の女性――葛城ミサトを思い返す。
その破天荒な性格と行動から少女のような雰囲気を持った、それでいて確かに成熟した大人の女性のそれを持った不思議な女性を。
少年にとって姉であり、母親であり、恋人であり、戦友であり、そして何より家族であった人を。
シンジの顔に笑みが浮かぶ。
再会した懐かしい人たちの顔が次々に思い浮かんでいく。
金色に染めた髪と白衣という取り合わせが奇妙に調和した、泣き黒子が印象的な女性――赤木リツコ。
清々しい、あるいは神々しい蒼の少女――綾波レイ。
そして、あごを覆う髭とサングラスによって表情を伺うことはできなかったが、息子に対しても奇妙な威圧感をみせる痩身の偉丈夫。
父親であり、国連の非公開組織特務機関"NELV"の総司令――碇ゲンドウ。
ゲンドウの顔が浮かぶと同時に対面したときのことを思いだす。
『久しぶりだな』
『出撃』
『座っていればそれでいいそれ以上は望まん』
『シンジ君、あなたが乗るのよ。』
『乗るなら早くしろ。でなければ……帰れ』
『シンジ君、時間がないわ』
『乗りなさい』
『予備が使えなくなった、レイを呼んでくれ』
少年の顔が自然な笑みから苦笑いに変わる。
そして、だんだん曇っていく。
「やっぱクーラーは人類の至宝。まさに科学の勝利ね、赤城博士」
シンジが今日のことを思い返していたちょうどそのころ、ネルフの作戦部長である葛城ミサトが声をあげていた。
大型トラックの中で分厚い防護服を脱ぎ、うちわで扇ぐ。
「……」
声をかけられた親友でもある赤木リツコは、かるくため息をついた。
二人ともそれ以上言葉を続けようとはせずに先ほどの戦闘の様子を思い返していた。
『第一次接続開始』
『エントリープラグ注水』
シンジがエントリープラグの、パイロットシートに座った。
オペレーターの声を追って足元からあの忌まわしい液体『L.C.L.』が上ってくる。
「くっ」
少年は一瞬顔をしかめる。
「我慢しなさい、男の子でしょ!」
叱責するミサト。
『主電源接続』
『全回路動力伝達』
読み上げられる、オペレータの声。
着々と進められる起動準備。
『双方向回線開きます』
『シンク……失礼しました。シンクロ率84%』
雛壇上になった発令所にどよめきがおこる。
「なっ、そんなありえないわ!」
「誤差、異常、共に認められません!すべて正常!」
「行けるわ!発信準備!!」
起動した。その事実に士気のあがるケイジ。
作業を進める職員の手に、熱がこもる。
『発進準備良し』
リツコは、いまだ少年の異常とも言えるシンクロ率について意識の数パーセントを割いていた。
しかしそのことを微塵も感じさせずにいつでも行けることをミサトに告げる。
「発信準備完了」
「了解」
ミサトはゲンドウのほうに向き直り、最終確認をする。
「かまいませんね」
「ああ。もちろんだ。使徒を倒さなければ我々に未来はない」
「本当にこれでいいんだな」
ゲンドウの横に立つ痩身白髪の老人。
印象としては、教鞭に立っているほうがはるかに似合っているであろうネルフの副司令――冬月コウゾウがそっと小声で尋ねる。
「問題無い」
きゅっと顔を引き締めるとミサトはおもむろに指示を出す。
「発進!!」
猛烈な勢いで地上に射出されるがL.C.L.のおかげでほとんど衝撃はない。
地上には奇怪な、醜悪な人間のパロディーとも言える緑の巨人がいた。
天使の名で呼ばれる存在、第3使徒『サキエル』
そして、幾分人間に近いフォルムを持った、しかし福音の名を持つとは思えない禍々しさを持った紫の巨人が地上に射出され、対峙する。
人の科学が生み出した、人ならざる人。
そして少年の母親――碇ユイを、取り込んだ存在。人造人間『エヴァンゲリオン』初号機。
「いいわね、シンジ君」
「……あ、はい」
『最終安全装置、解除』
『エヴァンゲリオン初号機、リフトオフ』
「シンジ君、今は歩くことだけ考えて」
リツコの声がする。
「……歩く……」
少年は、確かめるようにエヴァを2、3歩ゆっくりと歩かせる。
発令所からは、「歩いた」という声があちこちから聞こえる。
「よし」
少年は、小さいがはっきりした声でつぶやいた。
無言の気合と共にその場で軽くジャンプすると上体を低くして数百メートルある間合いを一気に詰める。
「シンジ君!」
ミサトが思わず声をあげる。「不用意に近づいてはだめ。」と続けようとする。
しかし初号機はすでに使徒に接近しており赤いどこかガラスのような硬質な感じのする壁に阻まれていた。
「A.T.フィールド!」
「ダメだわ。A.T.フィールドがある限り、使徒には接触できない」
叫ぶミサトの後をリツコが受ける。
初号機は、使徒の展開するA.T.フィールドを両手を使ってこじ開けるようにする。
『初号機もA.T.フィールド展開。位相空間を中和していきます』
「いいえ、浸蝕よ」
リツコが冷静に訂正する。
「こっちが説明する前に展開したけど、どう言う事リツコ」
冷静さを取り戻したミサトが、小声で訊ねる。
「自分の身を守るために本能的に展開したということかしら。
だとしたら一種の天才ね。」
その時、初号機が使徒のA.T.フィールドを一気に破る。
「浸蝕どころか、一方的な破壊だわ!!」
予想以上の能力に思わずリツコが声を荒げる。
一方ミサトは、一瞬できた余裕に指示を出そうとする。
「シン……赤く光っているボール状のものが見えるかしら、そこが弱点よ」
何とか具体的な指示を出そうとするが、格闘戦に入りかけたため簡潔な指示に切り替える。
具体的な指示が出せないのがもどかしいのか、悔しいのか、ミサトは唇を強くかみ締めている。
初号機は、使徒の手から連続して打ち出されえる"光の槍"をかわしあるいはフィールドではじき返しながら近づく。
そして鋭い気合と共に光球に放たれる必殺の抜き手。
『シンクロ率100%を突破。初号機の右手に強力なA.T.フィールドを感知』
突如使徒は軟体動物のようにエヴァに絡みつく。
「自爆する気!!」
ミサトの声に爆発音がかぶさった。
(確かあの後……)
シンジが思い返す
(意識が引っ張られるような感覚がして……。そうだ、"赤"の世界の夢を見たんだ。
リアルで感覚まではっきりとした)
一瞬全てのスクリーンがホワイトアウトする。
発令所全体がエヴァのあまりの力に、そして福音の名を持つとは思えぬあまりにも禍々しい姿に一瞬声を失う。
「あれが、エヴァの」
「本当の姿」
リツコとミサトがもらしたつぶやきに皆が我に返る。
『計器回復、パイロット生存を確認。ただし意識を失っている模様』
「パイロットの収容を急いで」
指示を出した後、ミサトが作戦部長として宣言した。
「使徒……殲滅。作戦を終了します」
ミサトは、同じ内容を繰り返すテレビに意識を向けるとチャンネルを次々切り替える。
「発表は、シナリオB−22か。またも事実は闇の中ね」
リツコのいる、後ろを振り返る。
「広報部は喜んでいたわよ、やっと仕事が出来たって」
リツコの方は、まだ頭の何割かを先ほどの戦闘に割り当てていたが、今度はきちんと応える。
「ウチもお気楽なモンね」
「どうかしら。本当は皆、怖いんじゃなくて」
「あったりまえでしょう」
そのとき、電話が鳴る。
二言三言、話をして受話器を置くと、リツコはミサトのほうに向き直る。
「シンジ君が気付いたそうよ」
「で、容態はどうなの」
「外傷は無し。少し、記憶に混乱が見えるそうだけど」
「まさか、精神汚染じゃ……」
「その心配は無いそうよ」
「そう」
「そうよね。いっきなり、アレだったものね」
「無理も無いわ。脳神経にかなりの負担がかかったもの」
「コ・コ・ロ の間違いじゃないの」
兵装ビルに武器、弾薬等が次々と補充されていく。
トラックから降りたミサトは、それを眺めていた。
「エヴァとこの街が完全に稼働すればイケルかも知れない」
「使徒に勝つつもり? 相変わらず楽天的ね」
トラックのリツコは、からかうようにミサトに言う。
「あら、希望的観測は人が生きていく為の必需品よ」
「……そうね。あなたのそういうところ、助かるわ」
「じゃ、あたし行くわ」
シンジは、"赤"の世界を思い出したことで顔をしかめると上半身をベッドから起こした。
(結局選択の余地なんてなかったんだよなぁ。
いや、滅亡の未来しかないのなら乗らずに帰るという選択肢もあるはずだ。
結局、僕は状況に流されてるだけなんだ)
シンジは、再び目を閉じる。
(本当に乗るしかないのだろうか。
あの"赤"の世界は、僕がエヴァに乗ったから引き起こされたんじゃないのか。
乗らないというのも一つの選択肢じゃないだろうか?
それは逃げていると言えるのだろうか。
乗る気がないのなら乗るべきではない。まわりに流されて乗った結果があれだ。
乗るかどうか僕は自分で決めなければならない。
どちらを選ぶにしても自分で決める必要がある。明確な理由と共に)
再び開かれたその瞳には、強い意志の光が感じられた。
そしてその光は、目を覚ましたときに見られた頼りなさ、意思の弱さを払拭していた。
シンジは、再び取り留めのない思考の海に沈む。
(綾波、また笑えるようになってほしいな。きれいな笑顔だったし。
そういえばリツコさんも時々きれいに笑ってたよな。普段は皮肉な笑顔しか見せないけど。
ミサトさんも加持さんのことがあってからはどこかに陰があったし。
それにアスカ……今度は、あの笑顔を曇らせない)
シンジは、燃えるような、激しさ、強さと脆さを併せ持つ少女。
誰よりも光り輝く少女――アスカの輝くような笑顔を思い浮かべる。
(そういえば父さんの『ニヤリ』以外の笑っている顔も見たことないな……イヤ見たくないか)
ある意味"赤"の世界にも匹敵するいやな想像に鳥肌が立つ。
精神的にタフになったのか、緊張感を保てない体質なのか。
シンジはまだ気付いていなかった、理由は自分のすぐ近くにあることに。
「もうすぐ時間よ」
シンジはミサトの車に乗って、第三新東京市を見下ろすあの高台の公園にきていた。
結局今回もシンジはミサトと同居することになった。
やがてサイレンと共に地下に格納されていたビル群が顔を出す。
前回は素直に感動していたが、夕焼けに"赤"く染まる町並みはどうしても好きになれそうになかった。
「ミサトさん。あの時、すぐに乗っていれば、綾波の怪我が悪化することもなかったんですよね」
景色に圧倒されて声も出ないのだと想っていたミサトは少し慌てる。
「シンジ君、あの状況ではしょうがないわよ」
しかしシンジの答えは、またしてもミサトの予想とは違っていた。
「僕はただ、命令以外の言葉が聞きたかっただけなんです。
たった一言「お願い」という言葉が聞きたかっただけなんです。これは我侭なんでしょうか」
ミサトは、立ち尽くすほかにできなかった。
「すみません。卑怯な言い方をしてしまって。
これからもエヴァに乗りつづけるかはしばらく考えさせてください。」
ミサトは、シンジの顔を正視する事ができなかった。
そんなこんなで『ただいま』と『お帰り』をはじめ。ミサトの部屋の掃除。
レトルト食品大集合の歓迎会。(シンジは部屋の掃除に時間がかかり、料理をする時間はないと判断した)
まもられることのない生活当番の取り決め。
命の洗濯、ペンペンとの再開といったイベントを順調にこなしていく。
やがてシンジが割り当てられた部屋に入る。
ミサトはひとり湯船に浸かって風呂の天井を見上げる。
「ちとわざとらしくはしゃぎ過ぎたかしら。見透かされてるのはこっちかもね」
つぶやくと持ち込んであった携帯電話に手を伸ばす。
「あ、リツコ。いや別に用事があるって訳じゃないんだけどね」
『どうしたの。彼氏とうまくいってないの』
「彼氏? ああ、シンちゃん。
あんなことさせた後でしょ、また乗ってくれるかどうか」
『彼のメンテナンスもあなたの仕事でしょ』
「怖いのよ、どう触れたらいいか分からなくて」
『もう泣き言?自分から引き取るって大見得切ったのに』
「うるっさい!!」
電話を切ると再び天井を見上げる。
「あの時私はシンジ君を自分の道具としてみていた。リツコと同じか。
あの使徒を倒したというのに」
目を閉じる。
「うれしくないのね」
シンジは仰向けにベッドに寝そべる。
「知らない天井か。
隣の物置のほうが馴染みがあるもんなぁ」
アスカのことを思い浮かべる。激しいまでの輝きを持つ"赤"の少女。
シンジは気付いていなかった。
"赤"という色に激しい嫌悪感を抱く自分が穏やかな、いや高揚感すら伴ってアスカを、彼女を象徴する"赤"という色を思い描いていることに。
やがてシンジはSDATを聴きながら、本日最後のイベントを待つ。
「……」
音もなくふすまが開くと、予想どおり、風呂上りのミサトが立っていた。
「シンジ君」
ミサトはベッドの上にいるシンジを確認すると、まじめな顔になって言葉を続けた。
「今日はどうもありがとう。そしてごめんなさい」
シンジは記憶と異なる言葉に驚く。
「高台の公園でシンジ君に言われて、ショックだったわ。
私シンジ君のこと、全然考えてなかったんだわ。
いきなり呼び出されて、ろくに説明も無しに頭ごなしに命令されて。
それで、ロボットに乗ってわけの分からない怪物と戦えだなんてね……。
しかもレイを連れて来て、一番卑怯なやりかたで乗せたんだものね。
ごめんなさいとしか言えないわ。そしてエヴァに乗ってくれて本当にありがとう。
あんな状況で乗ることを決断するなんて、あなたは私なんかよりよっぽど強いわ。
私なんかにネルフの職員を代表する権利はないかもしれないけどもう一度言わせて、ごめんなさいそしてありがとう。
私なんか保護者の資格なんてないわね」
ミサトの言葉は、シンジのどこか乾いていた心に浸透していった。
エヴァに乗ることの苦しみ、エヴァに乗らざるをえなかった苦しみをはじめてわかってもらえたような気がしていた。
使徒との戦いも苦しかった。
だが本当に苦しかったのは、エヴァに乗る以外の選択肢が無かったことだ。
それ以外の人生を否定されたことなのだ。
あふれる涙を、こらえようともせずにシンジは最上の笑顔でミサトに応えた。
「そんなことありません。ミサトさんだから。
ミサトさんがいるから僕は安心してエヴァに乗れるんです」
最後の戦いのとき自分を叱責し、目を覚まさせてくれたミサトの姿が浮かんでいた。
「ミサトさんのおかげで戦ってこれたんです。お礼を言うのは、僕のほうです」
「そ、そんな私何もやってないわよ」
と言う、ミサトのちょっと慌てた言葉で、シンジは自分が過去のミサトと混乱しているのを悟った。
「あ、えっと。その、すみません」
とりあえず謝ってみる。
「とにかく僕は、ミサトさんとなら、家族になれるような気がします。
ですから、あの、よろしくお願いします」
ミサトもまた感極まって泣き出していた。
シンジはどちらかと言うと母性本能を掻き立てられる繊細な風貌をしている。
しかし、さまざまな苦難を乗り越え生き残った経験からだろうか、シンジには包容力にとんだ確かに父性と呼ぶべきものが備わっていた。
そして、そのシンジに家族だと言われたことで、ミサトの心の欠けていた部分が、まだ十分とは言えないが確実に満たされていった。
その日、第三新東京市に本当の家族が新たに生まれた。
つづく
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