モニターに展開されるその光景に、誰もが声を失った。


縞模様を浮かべた、球体の使徒に兵装ビルが攻撃を仕掛けた時にそれはおこった。


その兵装ビルを中心に街が、ビルが、音もなく使徒の影に飲み込まれていくその光景に












 



WANDERING CHILD 第拾九話














「直径680メートル。厚さ3ナノメートル。あの影の部分こそが使徒の本体だわ。

その極薄の空間をA.T.フィールドで形成。

内部は『ディラックの海』と呼ばれる虚数空間、……たぶん別の宇宙につながっているんじゃないかしら?」

ブリーフィングルームでは、リツコが嬉々として状況の説明をしている。

やはり、科学者として燃えるものがあるようだ。

「あの球体は?」

ミサトが挙手をして質問する。

「本体の虚数回路が閉じれば消えてしまう。上空の物体こそ『影』にすぎないわ」

深刻な表情になるミサト。いや、この場にいる全員の表情が険しくなる。

「街を飲み込んだ、あの黒い影が目標か……

そんなの、どうすればいいの」

ミサトの言葉は、皆の気持ちを代弁するものだった。

「本来『ディラックの海』は、我々の宇宙には存在しない不安定なものよ」

「現に存在してるじゃないの」

まぜっかえすアスカに、しかしリツコは冷静に続ける。

「おそらく、A.T.フィールドを利用して安定させているのよ。

そこで、今回の作戦について技術部から提案があります。

992個、現存する全てのN2爆弾を中心部に投下、3体のエヴァが形成するA.T.フィールドを利用して
1000分の1秒だけ虚数空間に干渉します。

その瞬間的なエネルギーにより、使徒が形成している『ディラックの海』を破壊します」

「ふむ。それで成功率は?」

「MAGIの計算では22.8%です」

リツコの答えに冬月は眉をひそめる。

「完全に確立された理論ではありませんので、MAGIの計算でも虚数空間の破壊に必要なエネルギー量
に3桁もの開きがあります。

それでも過去の作戦のなかでも、成功率の高い方だと思うのですが?」

横目でミサトのほうを窺うリツコと、右の眉が跳ね上がるミサト。

だが、その雰囲気を打ち破ったのは、ゲンドウの一言だった。

「いいだろう、やりたまえ。以上だ」

ゲンドウが立ち去り、作戦会議は終了した。



アタシはその扉の前で3回、深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。

そして、不安を紛らわせるように、明るい声で挨拶をしながら扉を開けた。

「加持さん!今、お仕事いそがしい?」

加持さんは、机に向かってキーボードを叩いていた。

火の点いていない煙草をキザにくわえているのが、加持さんらしくて可笑しかった。

「ん?アスカか。

そうだな、忙しいと言えば忙しいけど、まあ、いつもこんなモンだからな。

少しぐらいなら、時間、とれるぞ」

「そう?よかったぁ」

アタシは本当にホッとしていた。

今日は、全ての勇気を総動員したのだ。

このタイミングを外すと、もう一度勇気を振り絞れる自信はなかった。

「どうした?何か悩みでもあるのか?」

そう言って、加持さんはアタシの顔を覗き込む。

「えっ?何で」

「ん。いや、無理に明るく振る舞ってるように見えたからな……」

「あ、分かっちゃうんだ……」

アタシは緊張がほぐれていくのを感じていた。

やっぱり、加持さんといると安心できる。

誰の手も借りず一人で生きて行くと決めていたアタシにとって、加持さんは唯一安心して休めるオアシスの
ような存在だった。

そう、まるで……まるで?

まるで、どうだと言うのだろう。

『身を焦がすような恋』

不意に、安心とは正反対の意味の、そんな言葉が脳裏に浮かぶ。

アタシは動揺を隠すかのように、その思いを心の奥に押し込んだ。

「あの、加持さん……」

ここで、もう一度呼吸を整える。

「加持さんが、ミサトのこと好きなのは知ってる。

この前、二人は遅くまで帰ってこなかった。

……アタシも子供じゃないから、それがどういうことかも分かってるつもり」

いったん言葉を切ると、加持さんの顔を窺う。

加持さんは真剣な顔で、アタシの話を聞いてくれていた。

「アタシはセカンドチルドレン。エヴァのパイロットで使徒と戦ってるわ」

加持さんの顔から視線を外すと、今までの戦いを思い返す。

「アタシね、最近、この世界も悪くないと思えるようになってきたの。

だから、この世界を守るためにエヴァに乗る事を誇りに思ってる。

……そのおかげで加持さんにも会えたんだし。

でもそれは、死と隣り合わせだということも理解しているつもりよ。

だから……、だから後悔しないように自分の気持ちを伝えたいって、そう思ったの」

もう覚悟は出来ていた。

告白する覚悟。加持さんの答えを聞く覚悟。……振られる覚悟?

違う。アタシは諦めない。

思いを伝えるだけで満足するつもりはない。

アタシは……アタシは加持さんとどうしたいのだろう?

不安がよぎる。

「アスカ?」

アタシは、加持さんの声で我に返った。

そう。今は思いを伝えることに集中しよう。

「加持さん。アタシ、加持さんのことが好きです。

加持さんはアタシのこと、子供か妹みたいに思っていることも知ってる。

確かにアタシは子供だったかもしれない。

でも、日本に来ていろんな事を経験した。

アタシは、……そりゃ加持さんやミサトに比べれば子供かもしれないけど、大人になれたと思う。

まだ加持さんには釣り合わないかも知れない。

でも、すぐにレディーになって見せる。

だから……私は加持さんのことが好きです」

(あれ?)

それがアタシの感想だった。

初恋の人への初めての告白。もっと、ドキドキすると思っていた。

前の晩は眠れなかった。

頭の中で、何度もシミュレートした。

でも本番は、まるで芝居のセリフでも言うように、スラスラと言えた。

(やっぱり少女漫画やドラマは現実と違うのね……)

そう、思い込もうとしていた。

違う。違う。

頭の中で、もう一人のアタシがそう叫んでいる。

違う。ちがう。チガウ……

「……スカの気持ちはわかった。でも俺は……」

アタシには加持さんの答えも、もう聞こえていなかった。

シンジ。

その時アタシの脳裏には、なぜかシンジの笑顔が浮かんだ。



発令所は忙しい。

たしかにゲンドウ、ひいては人類補完委員会あるいはゼーレの後ろ盾がある。

しかし核と違って、実際に切ることも可能な戦略的な切り札であるN2爆弾を全て差し出せと言うのだから、
その交渉は一筋縄ではいかない。

必要とあらばミサトも作戦部長として参加するのだが、戦自との関係が良好とは言えない事もありほとんど
出る幕はない。

また今回の作戦は技術部の主導で行われるため、はっきり言ってミサトは暇だった。

と言うわけで、大童の様子を上から見ているミサトとリツコ。

「あれ?リツコ、こんな所で油売っててもいいの?

忙しいんでしょ?技術部」

「最後にチェックしないといけないけど、今のところはね……

マヤに、少しは休んでくださいって追い出されたわ。

……それよりもアスカのシンクロ率、上がらなかったわね。

全然、集中できていなかったし」

チルドレンにプライバシーは無いのだろうか?

先日の、アスカの告白の情景はモニターされていた。

「ま、ね。女の子には一大事だからね」

「そう?でも意外ね」

「意外って?

リツコ。アンタ、加持が年下趣味だと思ってたでしょ」

ミサトは例によってチェシャ猫じみた笑顔を浮かべる。

しかし、付き合いの長いリツコは取り合わずに話を進める。

「アスカの事よ。

あなた、まさか本気でアスカが加持君のこと、好きだったと思っているんじゃないでしょうね?」

「そりゃ……でも、女の子にとってはショックよ?」

「アスカはチルドレンよ」

「チルドレンの前に女の子でしょうが!」

何処までもクールなリツコと、こぶしを握り締めて燃えるミサト。

「アスカの母親の事、報告書、読んでるんでしょ?」

「ええ」

「あの娘は悲しみを忘れるために、自らチルドレンである事を選んだのよ」

「……」



「ただいま」

アタシが帰ると、シンジはリビングで雑誌を読んでいた。

「おかえり」

そう言って顔を上げたシンジは、心配そうな表情になる。

「どうしたのアスカ……」

「えっ?」

頬を伝うこの感触は……

アタシ泣いてるの?

気が付くと、アタシは泣き崩れていた。

慰めてくれているシンジを感じながら。

アタシは加持さんに告白をし、そして振られた。

加持さんにはミサトがいる。

だからその結末は十分に予想し出来たし、覚悟も出来ていた。

(これで、アタシの初恋に決着をつけられる)

アタシはむしろ、さっぱりとした気分でネルフを後にした。

……はずだった。

それが……なぜ?

やはり、どこか無理をしていたのだろうか?

アタシは……

アタシは今どう思っているんだろう?

アタシは今どんな感情を抱いているのだろう?

自分で自分の感情が理解できなかった。

(泣くとすっきりするって、あれ本当だったのね)

シンジの胸に抱かれ、そして頭上に心配そうな視線を感じながら、そんな場違いな事を考えていた。



「ありがとう」

しばらくして顔を上げると、そこには予想通り心配そうな顔をしたシンジがいた。

「ありがとう。落ち着いた」

「うん」

どれぐらい泣いていたのだろうか?気が付くと、辺りは夕闇に染まっていた。

「アスカ、その……」

シンジの心配そうな、聞きようによっては情けなくも聞こえる声が、アタシの耳には心地よかった。

「うん。振られた……」

アタシの声には、何の感情も込められていないように聞こえた。

当たり前だ。

アタシは自分でも、どんな感情を抱いているのか分からないのだから。

その時、アタシは突然そのことに気付いた。

アタシは感情を感じていたんじゃない?

アタシは感情を考え、そして選んでいた?

まるでプログラムに従うロボットのように?

まるで人形のように?

恐怖がアタシを襲う。

自分の顔が、紙のように色を失って行くのを感じた。

アタシが人形を嫌っていたのは、アタシが人形だから?

フラッシュバックする映像。

人形をかわいがり、あやすママ。

その人形は……アタシ?

なんだ、そうか……

アタシが人形だったから、ママは人形をかわいがったんだ。

そうか……

悪いのはアタシの方だったんだ。

そうか……

ママ……

「今日は、もう寝るわ」

何とか、それだけの言葉を搾り出すことに成功した。



「それじゃあ、アスカのシンクロ率が低下したのは、他に原因があるって言うの?」

リツコは腕を組んで考えるしぐさになる。

「人の心はロジックじゃないか……

案外アスカ、本気で好きだったのかもね」

答えは、出そうになかった。



3体のエヴァが、使徒をぐるりと取り囲むように配置につく。

上空を埋め尽くす多数の攻撃機。

ミサトの号令を合図に作戦が開始される。

エヴァがA.T.フィールドを展開する。

次々に投下されるN2爆弾。

音もなく飲み込まれていくかに見えたその時、992個のN2爆弾が一斉に爆発した。

黒い沼のようにも見えた、使徒の表面が激しく泡立つ。

それは、使徒の断末魔なのだろうか?

きれいな円形を保っていた使徒が、アメーバのように不定形に姿を変える。

使徒のすぐ近くに展開していたエヴァは、身をひるがえす。

「うわああああ!」

一瞬、対応の遅れたアスカがつかまる。

蠢く、黒い影状の使徒。

呆然としているかのように、使徒に飲み込まれてゆく弐号機。

「結構がんばったのにな……

あんまり怖く無いや……やっぱりアタシ、人形だからかな。

そっか、死んじゃうんだ……アタシ」

脳裏に浮かぶ、日常の景色。

レイ、ヒカリ、ミサト、加持さん、リツコ……

そしてシンジ。

(もう、会えないのかな……)

その時、アスカの中で何かがはじける。

「イヤ……イヤ……そんなのイヤ。

イヤ!絶対にイヤ!!!

死ぬなんて、みんなに会えないなんて、そんなの絶対にイヤ!!!

たすけて!!シンジーー!たすけてぇ!!!」

それは、アスカの心の叫び。

それは、アスカの魂の叫び。

アスカが人形ではない証拠。

アスカがそれまで封印してきた魂を解き放った証し。

アスカは無我夢中で手を伸ばす。

最後の希望を込めてアスカは手を伸ばす。

アタシは人形じゃない。

アタシは人形じゃない。

魂の叫びを込めて。

そして……紫の巨人が、少年がその手をつかむ。

少女の心と共に。



決戦の夜が明ける。

作戦の後始末等もマコトの活躍により一段落し、ミサトは仮眠をとることにした。

その途中でリツコの部屋による。

「ヤッホー。リツコ、いる?」

何時ものことだと思っても、相変わらずのミサトの挨拶に溜め息をついてしまう。

「徹夜明けだと言うのに、無駄に元気ね。

どうせ、日向君をこき使っているんでしょうけど」

「失礼ね」

「否定できるの?」

「…………。

そんな事より、アスカの容態はどうなの?」

ミサトの額に巨大な汗が浮かぶ。

「あからさまに話をそらせたわね……

ま、いいわ。

アスカの容態だけど、シンクロ率が低かった事が幸いしたみたいね。

今のところ精神汚染の恐れは無し。

意識もじきに戻ると思うわ」

「そっか。

まあ、最悪の事態はまぬがれたか……」

うーーん。

腕を突き出して伸びをする。

「さて、一眠りしてくるか。

……あ、そうだマヤちゃん。リツコ、ちゃんと休んでる?」

その言葉にマヤは『困ったモンです』という態度を全身で表現する。

「先輩、私がいくら言っても休んでくれないんですよ!」

プンプンという擬態語があたりに散らばる。

その答えを聞いたミサトは、すばやくリツコの腕をホールドする。

「そんな事だろうと思ったのよ。

マヤちゃん、後任せても大丈夫?」

「はい、大丈夫です」

ブンと、大きく首を振る。

「そんじゃ、リツコ借りてくね」

なんにしてもこの二人、いいコンビのようだ。



気が付くと、アタシは病室のベッドで寝ていた。

「完璧に負けちゃったな……」

声に出して、確認してみる。

第7使徒戦の初戦のように、情報不足が原因だった訳じゃない。

完全にアタシのミスだった。

それでも思ったより落ち込んでいないのは、原因がはっきりしているからだろう。

助かったこと、それ以上に得るものがあったこと。

むしろアタシは喜びを感じていた。

アタシは人形じゃなかった。

アタシにもレイと同じような感情がある。

そう思うと、心の底から震えるような喜びがあふれてくる。

残念に思うこともあった。

加持さんへのこの想いは恋じゃなかった。

「恋か。……恋、したいな」

どうやらアタシは、恋に恋する普通の少女になってしまったようだ。

このアタシが。

そう思うと可笑しくて、笑いの発作が起こりそうになる。

そう言えば、けっこう格好よかったな。

ヒカリの紹介で、一度だけデートをした美形を思い浮かべる。

「うーん。なんか違うなぁ」

兎に角、アタシは生まれ変わったのだ。

天才美少女パイロットから、普通の恋する美少女パイロットに。

(あんまり普通じゃないかも)

窓からは朝日が差し込み、気の早いせみが鳴き始めていた。

(今日も、暑くなりそうね……)

アタシは、気分がよかった。



「コンコンッ」

遠慮がちなノックの音が静かな行室に意外なほど大きな音で響いた。

弱々しく、どこか頼りなげなそのノックの音に、アスカはシンジを連想した。

「どうぞ、開いてるわよ。シンジ」

プシューというエア音と共にドアが開き、アスカの予想通りにシンジが入ってきた。

「あの、大丈夫?」

ベッドの近くまで歩み寄ると、シンジは真剣な眼差しでじっとアスカを見詰めた。

心配の色。

ひたむきさ、純粋さ。

その普段はどこか頼りなげな印象のシンジが時折見せる強い意志を感じさせるそれと同じものだった。

「良かった、本当に……

その、加持さんとのことの後から、アスカ、どこか普通じゃなかったから。

でも今は何時も通りというか、なんだか何時もよりも穏やかな顔をしてるような気がする。

だから安心した」

そして、穏やかな笑みを浮かべる。

その時アスカはシンジの瞳の奥にあるやさしい光に気付いた。

(そうか)

アスカは思った。

この気弱げで、戦いというものとは縁のなさそうなこの少年が、かくも必死に戦うのはこのやさしさ故なのだと。

もちろんアスカは、シンジが一度この戦いを経験しサードインパクトの渦中に居たことを知らない。

だからシンジが戦う、その本当の理由を知らない

しかし、シンジが戦うその奥にはやさしさがあることを、アスカは確信していた。

ドキン。

その時アスカの胸が急に高鳴り始めた。

胸が苦しくなり、急に視界が狭くなったような気がした。

その視界いっぱいに写るシンジの顔。

アスカはそんな自分の変化を悟られたくなくて、シーツを顔のところまで上げると寝返りを打った。

「バカ!あんたが来るまでは気分が良かったのに。なんか調子が狂っちゃったわ」

そんな様子を見て、シンジはようやく何時ものアスカに戻ったと安心していた。

だが、そのアスカの顔が赤く染まっていることには気付かなかった。





つづく





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