アスカは私に秘密を話してくれた。碇君は、私の事を知っていた。
恐らく、碇君は自分の秘密をアスカに話したのだろう。
今度は私。私が秘密を話す時。
……でも、アスカは私のことを知って友達でいてくれるのかしら?
これは恐怖。大事なものを失う事を恐れる感情。
WANDERING CHILD 第弐拾参話
<第8日>
制服のままベッドに寝転んでいたレイ(今では少ないながら、私服も持っている)は、目を見開くとそのまま天井を見つめる。
「レイとは、これからもずっと仲良くしていきたいから」
アスカはそう言って母親の事を話してくれた。
(私もアスカと、ずっと仲良くしたい)
何より絆を求めるレイにとって、それは切なる願いであった。
だが、こうも思う。
(私は人間ではない)
例え、同じヒトであったとしても。
その事を知ったら、アスカは私を友人としてみてくれないのでは?
それは絶望的なまでの恐怖をレイに与える。
それでもだ。
(話さなくては)
そんな風に思うのはアスカとの間にかすかな壁を感じるからだろうか?
いや、自ら壁を作ってしまっていることに気付いたからだろうか?
ふうーーー
一つ、大きく息をする。
(碇君の匂いがする)
もともと納戸であったその部屋には、窓が無いからだけではないだろう。
アスカやヒカリ、そしてレイ自らの部屋。それらの、どの部屋とも違う匂いがしていた。
「碇君」
そっと呟く。
レイはシンジのことが好きだった。
どちらかというとそれは恋愛感情とよりも、もっと幼いそれだった。
レイにとってシンジは父親であり、それ以上に母親代わりなのだ。
誤解されるのを覚悟であえて言うならば、レイにとってゲンドウは父でありシンジは母なのだ。
だからこそ、レイはある意味誰よりもシンジの事を心配していた。
そして、そのシンジが自分の事を知っていたことが、今のレイにとってはわずかな希望であった。
(私が人間ではない事を知っていた、それでも同じヒトとして接してくれていた)
それは、レイにとって何よりうれしい事であった。
(もしかしたらアスカも……)
そうは思うのだが一番の親友であるアスカを失うかもしれないと言う恐怖は、それ以上に大きいものなのだ。
「レイ。どうしたのかしら」
ミサトからサルベージ計画のあらましを聞いた次の日から、レイは再び葛城家の厄介になっていた。
アスカは食事とシャワーのとき以外割り当てられたシンジの部屋に閉じこもったままのレイを、少量の嫉妬を感じながらも心から心配していた。
リビングのテレビは、バラエティー番組を映している。
だが、名も知らぬ出演者のおどけた動きも、アシスタントの女性の短いスカートも、合間に挿入されるわざとらしい笑い声すらも、アスカに感銘を与える事は出来なかった。
ソファーに座ってぼうっとテレビを見つめていたアスカは、姿勢を崩してうつ伏せに寝転ぶ。
肘掛けを枕代わりにして顎を乗せると、顔を上げてふすまをじっと見つめる。
まるで、その向こう側にいるレイを見つめるかのように。
もちろんレイだけでなく、シンジのことも心配している。
だがアスカは伊達に幼い頃から訓練を積んでいた訳ではない。
シンジのことに関しては、知りえる限りの情報は全て手に入れた。
そして、今はリツコ達に任せるしかないのだ。
アスカはすでに覚悟を決めていた。
事態は自分の手を離れている。じたばたしても仕様が無いのだ。
自分は自分の出来る事をすべきなのだ。
……必ず帰ってくる事を信じて。
それでも、心配でない訳が無い。
時々、感情のままに泣き、叫び散らしたくなる。
手に触れるあらゆるものを叩きつけ、壊したくなる。
本当に大丈夫なの?
本当に何も出来なかったの?
どうして私はここに居るの?
シンジの気持ちを分かろうともしないで……
だけど、そんな事を言っても仕方が無いと知っているから。
そして今、自分に出来る自分にしか出来ないことがあるから。
……レイ。
どうしたの?
どうして一人で抱え込むの?
アタシには話せないことなの?
レイ、一緒に笑ってシンジを出迎えよう。
何時の間にかバラエティー番組は終わり、ニュースが始まっていた。
まだ歳の若いアナウンサーが沈痛な面持ちで交通事故の被害を伝えているちょうどその時、唐突にふすまが開かれた。
ふすまの陰から姿を現したレイは、ソファーに寝転がっているアスカと目があっていることに気付くと、少したじろいだ様子になる。
が、すぐに思い直してアスカの方にそのまま真っ直ぐ歩み寄ってきた。
「レイ?」
アスカの声に、レイは肩をピクンと震わせる。
「アスカ……」
その声は、心の内を表すかのように震えていた。
「ちょっと、どうしたの?」
その様子に、アスカは居ずまいを正した。
立ったままのレイをとりあえず座らせると、テレビを消す。
「とにかく、ミルクを温めてくるから。まず気持ちを落ち着けてから、ね?」
5分後、ティースプーン一杯の蜂蜜の入ったホットミルクを飲んだレイは、それでもまだ少し震える声で話し始めた。
「アスカは私に話してくれた。碇君は知っていた。……今度は私の番」
悲壮なその様子に、アスカは首を振る。
「話したくないことなら無理に話さなくてもいいのよ。
それがどれだけ大変な事か、理解してるつもりだし……」
しかしレイは、その震える声とは裏腹に強い意思を感じさせる目をしていた。
「ありがとう、アスカ。
でも、アスカなら分かってくれると思うから。アスカなら受け入れてくれると思うから。
だから聞いて、私の話を。私の秘密を」
そしてレイはゆっくりと、一つ一つ自身の秘密を話し始めた。
その身に隠された過酷な運命を。
それまでの常識を覆す、驚くべき真実を。
<第9日>
気が付くと、時計の針は0時を指していた。
話を聞いたアスカはしばし呆然となる。
それほどまでに、衝撃的な話だったのだ。
呼吸を落ち着けて顔を上げると、レイが心配そうな目でアスカを見つめていた。
その目を見た時、アスカはほとんど衝動的にレイを抱きしめていた。
何より、この少女の事が可哀想だった。
何も知らず、何も知らされず、目的のためだけに育てられたこの少女が。
自分が不幸である事にすら気付かないこの少女が。
たまらなく可哀想で、いとおしかった。
「大丈夫よ、アタシはここに居るわ。ずっとここに居てあげる。
レイが自分のことをどう思っているのか知らないけれど、レイはアタシの親友だからね。
それは変わらないから」
雰囲気が和らぐ。
「アンタの生まれや育ちは関係ない。
レイは女の子で、アタシの親友。これ以上、何が必要だって言うの?
ね? そうでしょ?
大丈夫、アタシはここにいる。アタシはずっとレイの親友だから……」
レイは、アスカの胸に顔をうずめて泣いた。
何時までも、何時までも泣きつづけた。
でも、その涙はとても暖かかった。アスカが頭をなでてくれていたから。
<第31日>
『自我境界パルス接続完了』
痛いほどの緊張感のなか、発令所に最後の準備が終わった事が報告された。
「サルベージ、スタート」
リツコの声と共に、ついにサルベージがスタートする。
『了解。第1信号送ります』
『エヴァ、信号を受信。拒絶反応なし。』
『続いて、第2信号送信開始』
緊迫した声で報告しながら、オペレーター達がきびきびと作業をしている。
その様子を視界のすみに捉えながら、ミサトはモニターを凝視しつづけていた。
(シンちゃん。必ず戻ってきて)
見ていることしかできない自分を、もどかしく思いながら。
あれ? ここは何処だろう。
古びた列車の車内。
車両には僕一人しか居ない。座席に腰をかけている。
気が付くと、目の前に少年が一人。
「誰?」
「碇シンジ」
「それは僕だ」
「実際に見られている碇シンジと、内側からそれを見ている碇シンジ」
禅問答のような事を言う少年。
よくよく見ると、それは確かにシンジ自身だった。
「何時までそこに居るつもりなの?
キミはそんなに怖いんだ。
エヴァに乗るのが怖いんだ。
使徒と戦うのが怖いんだ。
自分が傷つくのが怖いんだよ」
もう一人の僕は僕の気にしている事を、一番言われたくないことを言ってきた。
僕だからこそ分かる事なのかもしれない。
僕の言葉は、僕の心を容赦無く切り刻む。
「当たり前じゃないか!?
死ぬかもしれないんだよ!!
どうせ結末は同じなんだ。みんな死んじゃうんだ。
どうせ死ぬなら逃げたっていいじゃないか!
それまで楽しく暮らせばいいじゃないか!
どうして僕なんだよ!?」
世界中の人に責められているような感覚。自分自身にすら責められているのだから。
……どうして僕なんだよ。
シンジの中でずっと燻っていたものがあふれ出てきた。
「違う。今度は死なせない。
アスカを、綾波を、ミサトさんを、みんなを助けるんだ!
みんな生きているんだ。
頑張って、一生懸命生きているんだ。
僕らは頑張らなくちゃいけない。
逃げちゃ駄目なんだ。立ち向かわなくちゃ駄目なんだ……」
嫌だ、逃げろと僕は言う。
立ち向かえと僕は言う。
僕は……
鳴り響く警報音。
俄然、作業をするオペレーターたちの動きが慌ただしくなる。
『駄目です! 自我境界がループ状に固定されています』
「全波形域を全方向で射出してみて!」
リツコの指示に必死で応えるオペレーターたち。
だが、結果は芳しいものではなかった。
「駄目だわ。発進信号がクライン空間にとらわれている」
くっ!
リツコの顔が歪む。それは、己の無力さに対してだろうか?
「干渉中止! タンジェントグラフを反転! 加算数値をゼロに戻して!!」
リツコの鋭い声に、弾かれるようにマヤが反応する。
キーボードの上を踊る指先。
『旧エリアにデスルト反応! パターンセピア』
『コアパルスにも変化が見られます!プラス0.3を確認』
必死の作業は続く。
「現状維持を最優先。逆流を防いで!」
『プラス0.5、0.8……変です、せき止められません!!』
マヤが悲鳴といってもいい声を上げる。
そして、それが意味するものは……
「そんな、何故? 帰りたくないの、シンジ君」
――これは?――
――これは、あの子の魂の記憶――
――あの子は未来を経験したのね――
――これが、来たる未来の姿――
――私が犯してしまった罪の代償――
発令所には怒声と悲鳴が飛び交う。
『エヴァ、信号を拒絶!』
『プラグ内、圧力上昇!』
「作業中止。電源落として!」
『駄目です! プラグが排出されます!!』
何とか助けたい。
みんなの思いは一つ。だが……
排出されるエントリープラグ。
開かれるハッチ。プラグスーツと共に流れ出る命のスープ――"赤"いL.C.L.
絶望が、辺りを支配していた。
それに、気付いたのはマヤだった。
「あれ? これは……。センパイ、初号機から信号が送られています!」
「……モニターに出して」
状況の変化。理論上ありえない現象。
リツコは藁にもすがる思いで、何がしかの奇跡が起こることに期待した。
そして……
モニターに写る初号機からのメッセージ。
それは確かに奇跡だった。
『私は何処で間違えてしまったのでしょう。
裏死海文書を発見した時? 解読した時?
人類補完計画を計画した時? ゼーレを利用しようとした時?
私はただ、この子達に明るい未来を見せてあげたかっただけなのです。
いいえ、今はそんなことは問題ではないのですね。
このままでは破滅の未来が待っているだけです。
せめてこの子達には明るい未来を、今度こそ残さなくてはなりません。
私は罪を償いましょう。
ゲンドウさん、冬月先生、私の変わりにシンジ達の事をよろしくお願いします。
私は二度と戻る事はないでしょう。
碇
ユイ』
うっ……ぐっ、……ううう……うおっ……
突如、聞こえてくる慟哭。
発令所の後ろから聞こえてくるのは、くぐもった慟哭だった。
その、微かに聞こえる音を聞いた者は耳を疑い、振り返った。
そして一人の例外もなく、今度は我が目を疑う。
そこには、サングラスの下から涙をあふれさせ、その唇を血が滲むほど噛み締めたゲンドウが居たのだから。
「何故だ、何故なんだユイ。ユイっ!!!!」
普段の様子からは想像もできないほど取り乱し、泣き叫ぶゲンドウ。
その一種異様な光景に、一瞬だれもが初号機の事を忘れた。
ただ一人、ハッチが排出されると同時にケイジに走っていったアスカを除いて。
たった一人、膝を抱えてうずくまるシンジ。
他者を拒絶するかのようなその姿は、あまりにも独りだった。
だが、優しい声が彼の心の氷を少しずつ溶かしてゆく。
――頑張りなさいシンジ――
「誰?」
――あなたなら出来るわ。だからシンジ、勇気を持って――
「誰?」
――何時まで寝ているつもり? いい加減に起きなさい――
「誰?」
――ごめんなさい、シンジ。辛い目にあわせて……母さんを許して――
「母さん?」
――もし、もし許してもらえるなら、どうか母さんのぶんも頑張って――
「母さん!!!」
――シンジ――
母に抱かれるイメージ。そのなんと暖かいことよ。
その暖かさと安心感を背に、シンジは一歩を踏み出す決心をした。
「僕、頑張ってみるよ。皆が笑ってくれるから」
――よかったわね、シンジ――
「シンジぃーーーーーっ!!!!!」
アスカは叫ぶ、ありったけの思いを込めて。
サルベージが失敗した。そんなことは信じない。
シンジはもう戻ってこない。そんなことは認めない。
「……シンジ」
思い出すのは、優しそうなその笑顔。
そして時折り見せる、何かをじっと考え込む顔。
……あの笑顔は、途方も無い苦難を乗り越えたものだったのか。
……あの顔の裏で、シンジは未来を繰り返さないように思い悩んでいたのか。
アタシはそんなことに気付こうともしないで。
シンジ……
目頭が熱くなり、涙があふれそうになる。
パァン!
アスカは両の頬を思い切り叩く。
(しっかりしなさい! アタシ)
気合いを入れて涙をこらえる。
これじゃあ、シンジはもう帰ってこないみたいじゃないの。
あのバカは絶対に戻ってくる。
アタシはまだ謝ってない。
アイツはアタシに謝られる義務があるの!
だからシンジは戻ってこなきゃいけない!
「戻らなきゃいけないのよ! バカシンジ!!」
……お願い。
……戻ってきて。
両手を胸の前で組み祈るような格好になる。
ドサリ。
不意に聞こえたその音に、アスカは顔を上げる。
「シ……ンジ?」
そこには裸のシンジが、まるでたった今エヴァから生み出されたかのように横たわっていた。
「シンジ、シンジ、シンジ……」
思わずシンジを抱きかかえると、他の言葉を忘れたかのようにそう呟き続ける。
(あれ? アタシ、シンジに謝ろうと思っていたのに。
シンジに謝りたかったのに……)
いつの間にか、モニターのメッセージには『さようなら、あなた』という一文が加わっていた。
それを見たゲンドウは、何も言わずに発令所を立ち去った。
「リツコ。司令、追いかけなくてもいいの?」
シンジを病院に収容すると、その陣頭指揮にたとうとするリツコにミサトは声をかける。
「何を言ってるの! シンジ君が戻ったとたんに男と密会でもしろって言うの?
これでもシンジ君には罪に意識は持っているのよ。そんな事できないわ」
ミサトはマヤに「任せても大丈夫よね?」と前置きしてから、固い表情のリツコに諭すように話し始める。
「リツコ、アスカが来た時のパーティーのこと憶えてる?
シンちゃんはリツコのこと、お母さんって呼んだのよ。
シンジ君は家族を求めている。
お父さんとの関係を修復したいと思ってる。
……リツコ、今は大きなチャンスよ。
そりゃ、相手の弱みに付け込むようなやり方は好きになれないかもしれないけど、好きってキレイ事だけじゃないしさ。
それに……これを逃がすと、リツコ、次は無いかもしれないわよ」
リツコはじっと目を閉じて、瞑想するかのように考え込む。
「たぶん、シンちゃんが一番望んでいる事よ」
ミサトの言葉に、ゆっくりその瞳を開ける。
「ミサト、初号機の実戦配備が遅れても知らないわよ。マヤ、後は任せるからちゃんとやってね」
そう言うと駆け出していった。
科学者の顔から女の顔になって。
そして、母の顔になって。
「アレだけきつい事が言えれば大丈夫ね」
ミサトは頭を掻きながら、シンジの見舞いに行こうかと考えていた。
つづく
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