その、リツコからの電話は短かった。
『あなたのガードを解いたわ。アスカと一緒にすぐに本部に来て頂戴』
思い出すのは前回のこと、崩れるレイと狂気に染まったリツコ。
シンジはその記憶を振り払うように激しく頭を振ってからアスカに声をかけ、出かける用意をはじめた。
WANDERING CHILD 第弐拾五話
「私も御一緒させてもらえるかしら?」
ネルフについたシンジ達がリツコに連れられて、セントラルドグマに通じるエレベーターに乗ろうとしたその時、ミサトの声がかかった。
「加持君の代わりのつもり?」
リツコの声は冷ややかだった。
「それでもいいけどね。……あたしにも知る権利はあると思わない?」
その挑発するような口調にも、リツコは冷静だった。
「あなたは既に、シンジ君から必要なことは十分に話してもらったはずよ?
それ以上知りたいと思うのは傲慢ね」
二人の視線が激しく交差する。
息の詰まるような沈黙が、辺りを支配した。
「私は構いません」
その沈黙を破ったのはレイだった。
「赤木博士、葛城三佐にも来てもらいましょう」
レイの押し殺したその声にミサトはハッとする。
昔のレイを思わせる感情を感じさせないその声は、しかし僅かに震えていた。
それは湧き上がる感情を押さえ込んでいる証拠なのだろう。
そのことに気付いたミサトは深く自己嫌悪した。
(そう。一番苦しんでいるのはレイなのに……
セカンドインパクトの秘密、真実を知りたいという思いで周りが見えなくなっていたのね。
これじゃあ加持君と同じね)
俯いて、一つ息を吐き出す。
「何をしているの? 早く乗りなさい」
顔をあげると、エレベーターに乗り込んだリツコがミサトを真っ直ぐ見つめていた。
「あ、ごめん」
全員が乗り込むと、エレベーターは何処までも降っていった。
ミサトはチラと横に立つ友人を窺う。
リツコは押し黙ってただ前を見つめていた。
(リツコ、ごめん)
ミサトは胸の中で頭を下げた。
恐らく謝罪を素直に受け取らないであろう、優しくて細やかで、そして不器用で意地っ張りのその友人に。
「レイ、ごめん……それと、ありがとう」
かわりにミサトは、リツコがもっとも望んでいるであろう、そして最も謝罪すべき人物に頭を下げた。
「私のほうこそ……
ミサトさんも家族なのに、ミサトさんにも見てもらうべきだったのに……」
レイの答えにミサトは振り返ることなく、再び頭を下げた。
そうしないと、涙がこぼれそうだったから。
セントラルドグマへと続くエレベーターには特別なIDカードが必要となる。
地下深くへと降りていく一行を監視する機械の目があった。
人口進化研究所3号分室――レイの生まれ育った部屋を通りエヴァの墓場を抜ける。
そして一向は目的の部屋にたどり着く。
薄暗いその部屋の上部には、複雑に絡み合ったパイプが淡い光を受けて浮かび上がっていた。
それはまるで、巨大な脳をかたどったオブジェのようだった。
その下にのびるパイプにつながれた、液体の満たされた試験管状の水槽。
レイが何時もメンテナンスを受けている水槽だ。
話に聞いていたとはいえ、実際にその目にするとそのショックはかなりのものだった。
誰しもが考え込まずに入られなかった。
レイの背負うその大きな十字架を。
エヴァと使徒、そしてこの戦いの意味を。
或いは人間の持つ業を。
(そうね、リツコの言う通りただの傲慢と自己欺瞞に過ぎないわね)
ミサトは打ちひしがれたようにうなだれていた。
そんな親友の姿を横目で見ながら、リツコは明かりを灯す。
光を受けて浮かび上がるのは、周囲をぐるりと取り囲む巨大な水槽と、そこに浮かぶ幾人もの綾波レイ。
わずかな溶液の対流にゆらゆらと髪を揺らしながら、その顔に空虚な笑みを浮かべていた。
「碇。構わんのか」
一言も発さずにモニターを注視しているゲンドウに冬月が声をかける。
そのモニターには、レイの体の浮かぶ水槽を前に凍りついたように動かないシンジ達の姿が映っていた。
「ああ」
冬月の問いにたっぷりとした間合いをはさんで、ゲンドウは簡潔に答えた。
「冬月こそ構わんのか」
モニターから視線を外さずにゲンドウが訊ねる。
それに対して冬月も、何時ものようにゲンドウの後ろに立ったまま答えた。
「碇。お前が無茶をするなら止めるつもりだったが、今のところ必要あるまい」
皮肉な笑みを浮かべる。
「ああ、今はな」
ゲンドウもまた、ニヤリとした笑いを口元に浮かべた。
「私は何時も考えていました。
どうして私なんだろう。何故、私なんだろう。
彼女達でもよかったんじゃないだろうかと。
私である必要は無かったんじゃないだろうかと。
ずっとそう思ってきました。
死ぬことは怖くありませんでしいた。だって私には代わりがいるから。
……それは嘘。
ずっと自らを偽ってきました。
死ぬことは怖かった。
私が残してきたものが、全て別の自分のものになる。
私の存在は完全に消されて、新しい自分が私の振りをする。
誰も私が死んだことに気が付かない。
だって、私が死んでも代わりがいるから……」
長い長いレイの独白。
その圧倒的なまでの孤独感、虚無感。
「彼女も悩んでいたのだな……」
その苦しい胸のうちを吐き出すように、冬月は一つため息をついた。
「人は神を見つけ、手に入れようとした。その報いがセカンドインパクトか……
そして今度は消えてしまった神を自らの手で」
「冬月」
ゲンドウの声が話を途中でさえぎった。
「演説なら他所でやってくれ」
やれやれ。
モニターに視線を戻しながら、冬月は頭を振った。
「レイ、あなたの呪縛を解いてあげるわ」
そう言ってリモコンを手にするリツコ。
他の者はまだ、硬直したように動けずにいた。
シンジを除いて。
「殺すんですか?……綾波の体を」
『殺す』その言葉に呆然としていたミサトやアスカも我に返る。
ピクンとレイの体が反応した。
「……赤木博士、私の……」
レイの声がかすれる。
「そうね、殺すことになるわね」
リツコの俯き加減の顔からは、表情を読み取ることは出来なかった。
「でも勘違いしないで。
これらは確かにレイの形をした、レイになる可能性のあったモノよ。
でもね、決してレイじゃないわ。
レイがレイであるのは、肉体に関係なくレイの魂だけよ……」
レイの表情に戸惑いの色が濃くなる。
「もちろん人の心はロジックだけで割り切れるモノじゃないから、簡単に納得は出来ないでしょうけど……
そして私にはこんなことを言う権利は無いかもしれないけれど……レイ、人として生きなさい。
そして、もし許してもらえるのなら。
レイの保護者として、家族として、もう一度やり直させて欲しいの。
レイ、ごめんなさい……」
リツコの操作で、水槽のレイの体が粉砕されていく。
それを見届けてから向き直ると、リツコは深々と頭をたれた。
モニターには、レイの体がちぎれ肉片となって消えていく様が克明に映されていた。
だが、そのショッキングな映像にも、ゲンドウは1mgの感銘も受けた様子は無かった。
「意外だな……」
それまで常にゲンドウの一歩後ろに控えていた冬月が、正面に回りこむように歩く。
「レイにはもっとこだわるのかと思っていたが……」
「もともとダミーシステムはゼーレからの依頼だ。
こちらのシナリオには関係ない」
「それはそうなのだがな……」
冬月はモニターの光を反射するサングラスの向こうの目を覗き込む。
だがその目は何時もと何ら変わったところは無かった。
「シナリオか……」
「ああ、まだ方法はある。
それに本来、あまり体が新しいものに変わるのは良いことではない。
それは魂の癒着を進めるだけだ」
未だシナリオにこだわるゲンドウに、冬月は思わず苦笑する。
「碇、既に彼女はシナリオを進める事を望んではいまい。
それとも、ただユイ君に会いたいと思うだけか」
冬月はじっとゲンドウを見据える。
(碇ユイ、そもそも彼女の遺志を継ぐことが目的だったのだ。だが、彼女自身がそれを否定した。
その上で彼女が戻ってくれればとも思っていたが、それも二度と戻ってくることは無いだろう)
既にシナリオの意義は失われているのだ。
(それなのにこの男は……)
やはりこの男のことを理解する日は来ないのかもしれないな。
そんな事を考えていたその時だった。
「冬月」
不意に顔の前で組んでいた手をほどいて、ゲンドウが声をかけてきた。
その声はそれまでのものとは違って、わずかながら戸惑いの色が窺えた。
「何故お前はそんな風に変われるのだ」
(そうか、そうだった……)
冬月は思い出した。
(不器用な男だったな。そのくせ真っ直ぐで……
だが、それにも限度があるだろうに)
再び何時ものポーズに戻ったゲンドウは、じっとモニターを見つめていた。
その顔からは、やはり先程の戸惑いは既に窺えなかった。
常夏となった日本だが、日が暮れるとそれなりに肌寒い日もある。
まして、高台にあるマンションの最上階ならなおさらだろう。
シンジはベランダに出て、ほおに当たる冷たい風を心地よく感じていた。
眼下に広がる街の灯かり。
それは、ただ明るいだけではなかった。
その下で人々が生活を育んでいる証し。
時には笑い、時には怒り、時には泣き、そうして確かに人が生きている証し。
シンジは純粋に美しいと感じていた。
それは一つの儀式だった。
この街を護ると決心したその日から。
戦うことを決心した日から。
シンジは週に一度は、こうしてベランダから街の灯かりを眺めていた。
「風邪、引いちゃうわよ」
アスカが長袖のシャツを持って、ベランダに出てきた。
「ありがとう」
「何、見てたの?」
シンジと並んで手すりに腕をかけると、眼下に広がる夜景を眺める。
「うん。あの灯かりの下にはいろんな人がいて、生きているんだなあって」
「ふーん」
互いの顔を窺いあう。二人の目が一瞬だけ合った。
「加持さん、どうしてるかな」
こうしてベランダで二人並ぶと、加持のことが思い出された。
ユニゾンのためにアスカと同居し始めた頃、加持とこうして二人で話したことを。
(そう言えば、あの時……)
シンジは加持に死ぬなと言ったことを思い出した。
(生きていて欲しい)
シンジは、ただそう思う。
「きっと元気だよ」
「うん」
風が吹き抜ける。
「リツコはさ」
どれだけ、そうしていただろう。
相変わらず眼下に広がる夜景を見ながら、アスカはそっと話し始める。
「リツコはきっと正しかったのよね」
自分を納得させるかのようなアスカの声。
シンジは、先程のミサトの話を思い出していた。
「リツコのした事が正しいのかどうか、私には分からないわ。
それはたぶんレイ、あなたが決める事だと思うから。
ただ、誰かがしなくちゃ行けない事だったと思うの。
そしてリツコは、それをするのが自分の役目だと思ったんじゃないしら」
それはどこか重い雰囲気の夕食を終え、食後のお茶を飲んでいたときだった。
それまで一言も発しなかったミサトが、唐突に口を開いた。
「リツコは、ロジックロジックと言いながら、どこかロジックに徹しきれないところがあるから……」
お茶を一口。
そして、ミサトは深々と頭を下げた。
「私には、セカンドインパクトの真実を知る権利があると思い込んでいたわ。
そのためならどんなことをしても許されると思っていた。
無神経だったともうわ。
そして、これもずうずうしいお願いだとは思うけど、レイ、できる事ならリツコを許してあげて。
……いいえ、まずは私のことね。ごめんなさい、レイ」
息を詰めるようの緊張感。それはレイによって破られた。
「頭を上げてください」
レイの声は何時ものそれだった。
「まだ自分でもどう思っているのかよく理解できていません。
もしかしたら今は許せないのかもしれません」
その言葉とは裏腹に、レイの顔に迷いは無かった。
「……ですけどミサトさんもリツコさんも家族です。
だからきっと許せる日がくると思います。ミサトさん、顔を上げてください」
「ありがとう、ありがとう。ごめんね……レイ」
ミサトは何年かぶりに涙を流して泣いた。
「やっぱりさ、リツコさんが一番綾波のこと、よく知っていると思うし……
きっと、そうだと思うよ」
そして力強くうなずく。
「そっか、それが家族なのよね」
空を仰ぐと、風が強いのか雲の流れが速かった。
「アタシね、ずっと必要とされる人になりたかったの。
必要とされる人になったら、みんなアタシのこと見てくれるんじゃないかって。
そうじゃないと誰も見てくれないって、そう思ってた」
家族を、両親の愛を、無償の愛を知らずに育った少女。
愛される事を、愛する事を知らずに育った少女。
「アスカ……」
シンジは思わずアスカの方に向き直る。
だが少年もまた愛される事を、愛する事を知らずに育ってきた。
「アスカ、僕たちは家族だから。
血はつながっていないのかもしれない。もしかしたら「ごっこ」なのかもしれない。
だけど、僕たちは家族だから。だから……」
かすかに震えるアスカの両手をそっと握り締める。
その手は暖かかった。
まるで家族の象徴のように。
そして、無償の愛の存在を証明するかのように。
やがて二人はそっと寄り添う。
眼下に広がる幾万の灯。
そのひとつひとつの下で団欒をしている家族を思いながら。
そこで笑っているであろう子供たちを思いながら。
レイがマンションに帰ると、部屋の前にたたずむ一つの影があった。
「リツコさん」
その人影――リツコは吸っていた煙草を携帯の灰皿に捨てると、レイのほうを振り返る。
「レイ、その……」
だが、レイはその言葉をさえぎった。
「リツコさん、とりあえず上がってください」
そして鍵を開ける。
「どうして通路で待っていたんですか?」
全く自然な様子のレイに、リツコは涙を流しそうになるのを必死にこらえながら言葉を返す。
「留守の部屋に勝手に上がりこむのはどうもね……ミサトのところに行ってたの?」
「ハイ。夕飯をご馳走になりました。あの、リツコさん、夕食は……」
キッチンで手際よく紅茶を入れながら、レイが答える。
「済ませたわ。
……レイ、その、今日のことは……」
だが、ティ−ポットを乗せたトレイを持ったレイは、リツコの顔を見つめてゆっくりと首を横に振った。
「リツコさんには感謝しています、本当に。
これでその呪縛から解き放たれました。全てリツコさんのおかげです」
だがリツコの表情は冴えない。
「いいえ、レイ。
私はその呪縛に捉えた研究の一端を担ってきたのよ。
そして母さんが死んでからはそれを率先してやって来たわ。
私の罪はこんな事では償えないわ」
深々と頭を下げる。
「そんな事、ありません。
どんなかたちであれ、この世に生を受けたから碇くんやアスカ、そして他の皆と知り合えたんです。
私は今、幸せです。それは私が今、生きているからです。
ですから気にしないで下さい、リツコさん。
むしろ感謝しているのですから」
「レイ……」
優しい沈黙とともに、互いに視線を交わしあう。
そして砂時計の砂が落ちきった。
「紅茶、入りました。ミルクは?」
「ありがとう、自分で入れるわ」
紅茶の香り。
ゆったりとした時間。
「レイ、今日は泊まってもいいかしら?」
「はい」
レイは満月のように優しく微笑んだ。
冬月の去った後、ゲンドウは一人司令室の執務机に何時ものポーズで座っていた。
やがて僅かに眉をひそめ、苦悩の表情を浮かべる。
「レイの魂は、ユイの魂の一部とリリスの魂の一部が融合したものだ。
もう一度ユイと会うには、レイを介したリリスと初号機によるサードインパクトしかない。
ユイと会うためならば、どんな事でもするつもりだった。
例え人類が滅ぶとしても。
だがユイ、私は間違っていたのだろうか」
その慟哭は司令室の外に漏れることはなかった。
たった一人の孤独な慟哭。
つづく
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